2015年12月1日火曜日
強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー 静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く
強く、りりしく、戦国時代を生きた静岡の女性リーダー
【静新平成27年11月6日(金)夕刊】
静岡大名誉教授 小和田哲男さんに聞く
今年8月、女性活躍推進法が成立したが、時をさかのぼれば戦国時代の静岡と浜松にも「女戦国大名」「女城主」の異名を持つ女性がいた。今川義元の母・寿桂尼(じゆけいに)(生年不詳~1568年没)と、2017年のNHK大河ドラマの主人公に決まった井伊直虎(同~1582年没)。戦国時代をたくましく生き抜いた女性たちの実像について、"歴女、記者が戦国史研究の第一人者である小和田哲男静岡大名誉教授にインタビューした。いざ出陣。(塩沢恵子)
寿桂尼 領国支配に手腕発揮
―男たちが合戦に明け暮れた戦国時代、女性はどんな立場だったのでしょうか。
「合戦は男だけが戦ったのではないと最近分かってきた。沼津市の千本松原に、武田氏と北条氏の戦いで亡くなった人の首を埋めたと伝えられる首塚がある。骨を分析すると、3分の1は女性だったそうだ。しかも至近距離で後ろから鉄砲で撃たれたとみられる女性の頭蓋骨があった。確認された105体の骨は全て成人。老人や子供はいないことから、合戦に女性も加わっていたと考えられる。私も驚いたが、史料を読み直すと、日尾城(現・埼玉県)の妙喜尼など、女性が城を守って戦った例は結構ある」
ー女性が戦場で戦っていたとは驚きました。寿桂尼にいたっては「女戦国大名」と呼ばれているそうですが、その理由は。
「寿桂尼は夫の今川氏親が亡くなった後、病弱だった子の氏輝の後見役となり、1526年から6年間、自分の印判を押した文書を出した。男の戦国大名と同じように領国支配に手腕を発揮した」
-女性が当主の後見役を務めることに周囲の反発はなかったのでしょうか。
「夫の氏親は亡くなる10年ほど前から中風で寝たきり状態だったという。戦国大名が領国支配のために作った分国法として名高い『今川仮名目録』は氏親が亡くなる直前に制定したもの。作成には寿桂尼が関わっていたのだろう。だからこそ重臣たちも彼女の能力を認めたのだと思う」
ー寿桂尼が静岡に残した功績は何ですか。
「1982年、現在の駿府城公園の発掘調査が行われ、今川館跡から茶道具などが見つかった。京都の公家出身だった彼女の存在があってこそ、今川文化が花開いたのではないか」
ー女城主の井伊直虎は、大河ドラマの主人公に決まりました。直虎とはどんな人なので
すか。
井伊直虎 男になりきった城主
「直虎は井伊谷(現・浜松市北区引佐町)を治めていた井伊氏の当主直盛の一人娘。元の名前は分からないが、家督争いで一族の男性が次々と殺される中、出家して次郎法師を名乗った。父直盛は今川軍の一員として桶狭間で戦死。次の当主直親も殺され、一族に成人男性がいなくなった際、次郎法師は直虎を名乗り、元婚約者でもあった直親の遺児虎松(のちの井伊直政)を育てながら、1565年から4年間、井伊谷城主を務めた」
ー女性が城主になるのは珍しいのでは。
「女性が家督を譲られた例は、九州の戦国武将立花道雪の娘の誾千代(ぎんちよ)など他にもある。しかし、直虎が特殊なのは、署名代わりのサインである花押を使っていた点だ。特別に地位が高い女性を除くと、一般の女性は当時、花押は持てないという不文律があった。寿桂尼も花押は持っていない。直虎は男の名前に変えただけでなく、男になりきっていた。周囲もそれを認めていたということが面白い」
ー直虎の功績は何ですか。
「今川氏が没落した後、浜松城主だった徳川家康に直政を仕えさせるという決断をしたことだろう。後に直政は『徳川四天王』と呼ばれる名将になり、井伊氏は彦根城主となった。そして幕末に日本を開国させた大老井伊直弼(なおすけ)につながった」
ー戦国時代の女性というと、政略結婚の悲劇を思い浮かべがちですが、たくましく生きた人もいたのですね。
「政略結婚と言っても、当時は親が決めた相手と結婚するのは当たり前なので、彼女たちは『好きな相手と結婚できなくて不幸だ』とは思っていないだろう。政略結婚で嫁ぐ女性は、国の平和のために外国に派遣される、いわば大使だ。家督を継ぐのが男性に限られたのも江戸時代以降。戦国時代は女性の役割が非常に大きかった時代だと言える」
首塚(沼津市本字千本1910の186)沼津市教委によると、1900年5月、暴風雨の翌朝、千本松林で見つかった頭蓋骨を集めて弔ったという。鈴木尚東京大名誉教授が89年、調査報告書を出した。本光寺の北側西隅にある=写真①=。
千本首塚(静岡県沼津市千本浜)
天正八年三月、甲州武田勝頼と小田原の北条氏政軍が激突した遺跡。この時、北条方の優秀な軍船に制圧された武田軍は、なすところなく砲撃をうけて塹壕にひそみ、陸戦隊にふみにじられて敗退した。
この首塚に首なし武者の伝説が発生したことは、前述したとおりだが、明治三三年五月の暴風雨で欠崩し、おびただしい頭骨を露出させて村民を驚かせている。
そのため村人は、ここを発掘して頭骨を集め、俵につめて長谷寺にもちこんだ。しかし間もなく本光寺の角地に塚を築き、石碑をたてて祀ってやった。
昭和二九年におよび、東大の鈴木尚氏によって正式発掘が行なわれると、これが伝承の如く戦国時代の首塚であることが確認され、すっぽりと刀で切り割られた頭骨などで歴史のあとが実証づけられた。
まず石碑を脇によせ、石積みを除去してから、砂地を掘りすすめると、間もなく寄せ集められた頭骨が、寄りそうようにいくつか露頭した。土をよけると、いずれも北向きに安置してあって、このひとかたまりの頭骨の下部には、平板石が敷かれていた。そこで頭骨をとりあげ、石を除くと、再び人骨があらわれてきた、掘ると、これらは大きな甕に納められた分ですべて破片であった。頭骨の破片が、ぎっしりとつめられていたのである。明治時代の扱いであろう。
これら破片はきれいに水洗いされて、やがて調査計測されて、次のよう事が判明した。頭骨のなかに一刀のもとに鉢を割られたものが混っていて、激戦のあとを物語っていたが、それにもまして平均年令が、意外にも若い十代後期に集中していたことは、きびしい戦国の現実を物語っていた。その数は、数百人、という漠然とした表現しかできないほど、破損骨片の多いこととが、ありし日の犠牲者を彷佛とさせていた。なお明治時代には、まだ完全な形のものも多かったようだが、発掘と移動でくずれ、さらに埋葬時点で破損したものも多く、写真で見るような程度になぞいたのであった。
(遠藤秀男著「日本の首塚」)
龍雲寺(りゅううんじ、静岡市葵区沓谷3の10の1)寿桂尼の菩提寺で、遺言に従って今川館の鬼門に当たる東北方向に建てられた。墓所=写真②=のほか、寿桂尼没後430年に建てられた石碑がある。<電054(261)4861>
龍潭寺(りょうたんじ、浜松市北区引佐町井伊谷1989)井伊家の菩提寺で直虎の墓所=写真③=がある。国指定名勝の庭園は小堀遠州作。紅葉まつり・寺宝展が12月10日まで開かれている。<電053(542)0480>
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿