2015年11月12日木曜日

東海道こぼれ話 鈴川憲二

東海道こぼれ話 鈴川憲二

 志多町・川廓・水神社
 志多町と川廓は旧上土の一部として古くは三枚橋城の縄張の内にあって防備の重要な位置にあったが,名の示す如く低湿の地で,たびたび洪水に見舞われ,後に東海道の道筋にあたり人家が軒を連ねるようになるに従い,城地から外された。水神社は旧城時代の曲輪の守護祥であり狩野川洪水の守り神様でもあった。現在では極めてささやかな社殿が堤防の際にある。狩野川に添っている川廓の道は300年昔からの東海道そのままの道巾で旧市内では残っている唯一のところである。

 大手門前
 川廓から坂を上り静岡銀行沼津支店前が水野藩沼津城の大手門前にあたる。大手前広場といっても駅前通りの巾で銀行前から静銀代弁の前までの狭い所である。大手門は魚ぶんの天ぷら屋の所にあって東を向いていた。徳川の中期以後の太平の時代の大名の居館としての城のため,防禦は余り考慮する必要は無かったが,市街地に近接していたため,再度火災に見舞われた。

 上土通り
 東海道は大手前で左に折れて上土通りとなる。上土の地名は城の工事のため土を掘り上げたことから由来するが,大字の上土は町方・八幡町・片端・七反田までお城を取巻く全地域が含まれているが、最近古文書によって沼津古城すなわち三枚橋城の縄張りが七反田以南の大字上土全部にわたることが判明した。現在の上土町一帯は沼津古城内の町家から発展して城下町の宿場の商業中心地を経て今日に至ったのである。

 上土商人の系譜
 江戸末期から明治初年の上土は沼津城大手前にあって,東海道筋にあたり,裏に狩野川を背負っていたので,河岸の荷上げにも恵まれて,ことに東側は関西資本の商店によって殆ど占められていた。その国元をみると,阿波国から鹿島屋・阿波屋,近江国から日野屋,泉州堺から大坂屋等であった。その殆んどが本店が国元にあって,支配人番頭以下全員が同じ国から来ていて妻子は郷里にいて,盆暮年2回だけの休暇に郷里に帰えることになっていた。店は男世帯で飯炊き婆さんに炊事をさせた。古い番頭の言によると,たまに郷里に帰えるので子供は恐わがって,2,3日はそばに寄らないで,帰える頃になってやっとなれたという。年配者には新地の勘定は店持ちになっていたが,そう度々は帳面に書かれないので自前も多いとのことだった。
 当時最大の店は鹿島屋であって沼津藩のお金御用をして名字帯刀を許されていた。江戸の鹿島屋清兵衛は同じ一族であった。明治維新後,国元に引上げ店は支配人番頭等8軒に分割されたが現在上土に2軒だけ残っている。本会員と関係あるのは日野屋(山中君),阿波屋(石原君),大坂屋(鈴川)である。

 阿波屋のかっぱ薬
 石原君の店で大正の頃まで売っていた家伝薬で由来は阿波屋の裏の狩野川の河岸に大きな穴があって、先祖のお爺さんが風邪を引いて寝こんでいたときに河童が夢枕にでて,水出で大きな石が穴をふさいでいて出られないので,それを取り除けてくれればお礼に風邪薬を教えてくれるといった
ので,取り除いて教わったのが,その河章薬であったという,宣伝の妙。


 通横町
 上土から右折すると通横町となる。宿の主要機関である問屋場はここの北側におった。三町よりなっていた沼津宿では一か月のうち上旬は三枚橋中旬は本町,下旬は上土から問屋,名主,年寄と三役が勤務して公用の貨物の輸送や馬や人足の手配をしていた。
 問屋場の裏庭の一隅には人足部屋があった。俗にいう雲助たちの溜場である。駿河銀行西側の西島屋が茶飯屋で人足や旅人たちの大衆食堂であった。
 通横町から北に向う六軒町の通りが問屋小路で,西側に水野藩の町方役所があり郡奉行がいて町役人の支配をしていた。その隣りに町方御長屋が竝んでいて町方役人の住居であった。現在では町名にその名を残している。
 明治9年に港橋(現在の御成橋)が開通して通横町の道が河岸まで通じた。それ以前は上土と通横町の境の小路から河岸に下りて渡し船で香貫方面に渡った。
 問屋場の西に大黒楼や蓬莱屋等の遊廓があって上本町・下本町まで色街をなしていた。大門の通りは細い道で正見寺や本光寺に入る道として門前町として大門の名を残している。
 明治以後も有力な商店が軒を竝べていたが,大正2年の大火以後区画整理で本通りができて通横町は沼津の中心地となり,当時の珍らしいものとして勧工場と救世軍があった。勧工場はマーケットのようなもので店内にコの字形の通路があって自由に通り抜けができ座売りだけの商店の中にあって特に目を引いた。救世軍は駿河銀行の前あたりにラッパ太鼓の独特なメロディに夜の散歩客の足を止めさせていた。

 上・下本町
 城下町の沼津の街道は見通しできないように何度も折返している。通横町から直角に曲って本町に入ると本陣を初め宿屋の多いのが目立つ。幕末の頃には上本町に脇本陣1,仮本陣1,下本町に本陣2,仮本陣2,旅籠数軒があった。清水・間宮両家は木陣として有名であった。明治にな東毎道線が開通すると交通の変化によって廃業するものが多くなった。大正2年の大火災以後街の様相は変わり,花柳界の発展と映画館や劇場によって本町の繁栄時代となった。
 本ブラ
 大正の頃には夜ともなると夜店が出てアセチレンの焔のもとに夏の頃はバナナのたたき売りや虫売り植木屋その他,素見客に賑って銀ブラならね本ブラが出現した。千本・牛臥・静浦には別荘が建並んで避暑の客も本ブラを楽しんだ。

 映画館
 その当時,本町の中程に金鵄館があり下本町に中村演芸館があった。こちらは寄席であった。
 金鵄館は映画専門で沼津にいちばん初めにできた映画館であった。その頃は活動写真といった。連続大活劇や目玉の松ちゃんこと尾上松之助の旧劇(時代劇)が人気を呼んでいた頃であった。活弁こと映画説明者がいて,新派大悲劇では全市の子女の紅涙をしぼった。楽師はヂンタで,その呼込みや市中の宣伝隊は街の景物でもあった。ピアノ・ヴィオリンの伴奏に変ったのは大正10年の頃であった。当時の映画館は男女が別々にされて,真ん中が同伴席であった。後方に一段高く警官席があって,お巡りがサーベルをかまえていた。

 新町と浅間町
 東海道は新町に突きあたり右折して浅間町となる。突きあたりに仁堅家と言う薬屋があった。門口が2間であったので,そう呼ばれたのが屋号となった。現在は下本町に移ったが沼津朝日の露木豊君の生家である。隣にあった菓子屋の塩坂は御用邸御用の有名な店であった。
 浅間神社は旧沼津の氏子を二分する神社であるが,社格は旧郷社で居候の丸子神社は県社であって,この方が社格が上であった。丸子神社はもと丸子町にあって式内社として立派なものであったが,戦国時代の兵火に焼かれて現在の有様となった。旧社地には小祠が祀られているが,付近には社に関係ある地名が多く残されている。また市道の地名は門前市の名残の地名である。

 出口町
 出口は沼津宿時代の宿のはずれで旧幕時代には往来を見張る見付のあった所であった。元市長の和田家はこの地の草分けで名主を代々やっていた。
 大正2年の大火は出口の団子屋が火元で,3月の節句の風の強い日で子供が焼芋を買いに来て戸口を開けると西風が吹き込んで釜の火口から焔が縁の下に吹き出して,燃し物の松葉に火が移ってたちまち火事になった。手伝に皆行っているうちに風下の上土に飛火して,次々に延焼して手のつけようが無くなった。焼失1,500戸,罹災者7,500人,焼死9名であった。

 蛇松線
 自動車の交通の多い街々を汽笛を鳴らしながら遠慮がちに走っている蛇松線は,明治22年東海道線の開通前に工事線として、材料運搬のため作られた。当時は郊外の水田の中を走っていたが,町の発展に従がい市街地を走るようになった。千本浜の牧水碑の巨石もこの線のレールによって運ばれた。昔懐かしい蒸気機関車も現在はディーゼル機関車に変わっている。

 間門
 東海道は市道を経て間門となる。間門は囚人堀を境に東間門と西間門に分かれる。この地名については,いつの頃か古い時代にここの海底からエンマ王の首が漁夫の網にかかって引揚げられ,その首に「天笠まかつ国」と記されていた。里人が胴体を継ぎ足し,お堂を建てて祀っていたが,いつか転訛して「まかど」の地名になったと伝えられる。このお堂も明治になって姿を消して,あとの敷地は囚人堀の河川敷となった。

 囚人堀
 西北部排水路が正式の名称で,浮島沼に連なる湿田の排水のため戦時中,海軍工廠によって掘さくされた。堀の東は海軍工廠の敷地になっていて工事に沼津と静岡の刑務所の囚人を使役したので囚人堀と呼ばれるようになった。

 六代松
 東間門地先に千本松原の浜続きに六代松と称する老松が百数十年前まであったと伝えられている。現在は沼津藩の典医駒留氏の書かれた碑が残されている。平家の公達六代が,この所で打首になるのを,文覚上人に救けられたという,平家物語に拠ったものであろうか。



 甲州街道
 千本公園入口の右の道を入り右に折れて本光寺前を海岸沿に松林の中を行くとやがて国道1号線と出会う。昔は細い道であった。この道が甲州街道で戦国時代に武田氏が塩を求めて,駿河に進出して千本浜で塩たきをして,できた塩を延々と松林の中を富士川の河口まで運んだのが,いつしか細い道となり甲州街道と呼ぶようになった。富士川の急流は船によって甲州まで運んだ。黄瀬川沿の御殿場街道は甲州への近道であるが北条氏との勢力の接点であるので危険を感じたので,海岸筋を運んだと思われる。
 その後徳川家康は甲州への交通の重要性を認め富士川の水運再開を大久保長安に命じた。長安は慶長17年(1612)角倉了以の協力によって川底の岩を除き,甲州鰍沢(かじかざわ)から中流の飯富を経て岩淵まで72キロの富士川水運が通じた。
 高瀬舟で下り半日,上り3日程かかった。下りの主な荷物は米で,岩淵から駄送で清水港に至り船便で江戸に運んだ。これは幕府の御用米であった。上りの主なものは塩と雑貨であった。鮮魚は富士裾野経由の中道街道や沼津方面からは御殿場経由で送られた。現在片浜から原を経て西へ向う国道を疾走すをトラックやバスの乗客で昔をしのぶものは殆んどないが,晩秋の中の櫨(はぜ)の紅葉の美しさは目をみはるものがある。松林の中の雑木を育てる方法として,櫨の苗木を植林したいものである。
 沼津領の榜示
 甲州街道から旧東海道へ戻り西間門に入ると八幡神社の前に半ば埋れた石の標柱がある。僅かに「従是東」の上の部分だけが現われている。東の大岡久保にある「従是西沼津領」の榜示と東海道沿の沼津藩の境界を示すものであり,安永7年水野藩が沼津の地に封じられた時に建てたものである。古老の話によると子供の時分には,さんざ乗っていたづらしたので埋められたらしいとのことであった。

 大諏訪・小諏訪
 間門の西方には街道沿に民家の続く部落大諏訪・小諏訪がある。この地名はここに鎮座する諏訪神社による。熊野神社が黒潮に乗って紀州から海岸伝いに広まったように。諏訪明神信仰は富士川と天竜川によって東海道方面に伝って来たものである。

 松長
 松長には史蹟として神明塚と松長陣屋がある。神明塚は前方後円墳で全長62m,頂上に神明宮が祀ってある。沼津の古墳は殆んど根方方面にあるが,海岸近くにあるのは珍らしい。5世紀頃には浜通りの開拓が進み有力な豪族が現われたことを示すものである。松長の陣屋はこの神明塚から旧東海道の街道にかけての附近一帯が旧趾地である。小田原大久保藩の支藩荻野山中藩(神奈川県厚木の北2粁)1万3千石の内駿河に2千5百石,伊豆7千5百石の地を支配した後所をこの地に置き陣屋と称した。明治維には徳川領となり,廃藩置県によって静岡県に含まれて現在では当時の姿は全然残されていない。

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