先進的だった静岡県東部の綴り方教育
沼津ふるさとづくり塾 高橋敏氏が講義
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は、郷土史講座「第8回沼津ふるさとづくり塾」を、このほど市立図書館講座室で開講。国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏が「駿東文園と綴方教師たちー冨原義徳と杉山正賢」と題し、戦前の一時期、全国から見ても先進的だった静岡県東部地区における教育の様子を話した。
北駿に誕生した「児童文苑」
「駿東文園」に改称、「沼津文園」も系譜上に
大正時代と綴方「綴方(つづりかた)」とは、戦前の小学校で実施されていた授業科目の一つで、作文指導が行われた。現在は国語科に吸収されている。
講演冒頭、高橋氏は江戸時代には各地で独自の教育が行われていたことを紹介しながら、近代的教育のスタートとなった明治の学制は国家による教育統制のスタートでもあった、と指摘。その反動から大正時代には「大正自由教育」と呼ばれる新たな動きが起き、綴方の授業にも大きな影響が出たことを述べた。
それまでの綴方の授業では、時候のあいさつなどの文章の型を教えることに主眼が置かれ、大人のような文章が書けるようになることが期待された。これに対し、子どもが身の回りの生活を題材に、子どもらしい文章を書けるようにしようという動きが起こった。
嶽陽文壇 富士郡大宮町(現富士宮市)では、小学校教員の池谷佐一郎が大正七年(一九一八)に作又投稿誌「嶽陽文壇」を創刊した。我が国の児童文学に大きな影響を与えた児童文学雑誌「赤い鳥」の創刊四カ月後のことだった。
嶽陽文壇は、地方資産家の子弟でもあった池谷が学校組織とは無関係に設立した出版社によって制作され、池谷は教員を続けながら編集した。
投稿作品が掲載された子どもには景品を進呈するというアイデアなども盛り込まれ、最盛期には全国から投稿が寄せられ、数万部が発行されたという。その一方で、投稿の過熱により、他人の文章を丸写しした投稿や、それへの告発なども相次いだ。こうした投稿誌という形態は、郵便制度が全国的に整備されたことから可能になったメディアでもあった。
大正十二年(一九二三)、富士郡で「一斉考査(学力テスト)」の実施計画が持ち上がると、池谷は「狭い学力偏重につながる」との理由から反対運動を展開。その結果、計画は中止されたが、教頭に相当するポストに就いていた池谷は処分を受け、教員を退職して上京した。
池谷は東京で、「不二文壇」と改題し雑誌の発行を続けたが、その後、廃刊となった。
駿東文園 子ども達が生活をテーマに作文する新たな綴方運動は、駿東郡にも波及。御殿場などの北駿地域で教員をしていた富原義徳と杉山正賢は、池谷が富士郡を去った三年後の大正十五年(一九二六)に駿東郡で作文集「児童文苑」を発刊した。富原と杉山は、池谷と同じく静岡師範学校を卒業していて、池谷は先輩格だった。
富原は「田園児の創作は田園から生まれる」と提唱し、農村の生活や地域の行事について子ども達が見たこと感じたことを率直に文章に書くことの重要性を訴えた。当時、方言は矯正の対象となっていたが、富原は子ども達の文章中に方言が登場することも許容したという。
富原は「創作鑑賞 土の綴方」と題する書籍を出版し、同書は全国的な評価を得ている。
戦後、「児童文苑」は「駿東文園」と改称し、北駿地域や清水町、長泉町の小中学生を対象に現在も続いている。沼津市内の小中学生を対象とした「沼津文園」も児童文苑の系譜上にあるという。
【沼朝平成27年12月10日(木)号】
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