2015年8月8日土曜日

歴史とは・・・・ 鈴木数雄(沼朝投稿記事)

歴史とは・・・・ 鈴木数雄
 『昭和天皇実録』が第二冊まで刊行されている。明治三十四年のご誕生から大正九年(十九歳)までの動静が記されていて、驚くのは沼津御用邸滞在が頻繁で、長期にわたったこと。ほぼ毎年、暮れに沼津にお越しになって新年を迎えられ、春になると東京へ御帰還という日程が繰り返されている。
 滞在中の生活など知る由もなかったが、今回分かったことの一つが「御運動」。桃郷や我入道、千本の松林や海岸に精力的にお出かけになる。貝拾い、クラゲ捕り、松露採り、凧揚げなどもされた。ご成長とともに徳倉山、鷲頭山、香貫山と行動範囲は広がる。
 七面山、土筆が原、雷山、大平越え、香貫山の十三本松などの地名が詳しく記されている。現在、沼津アルプスと呼ばれる山々だが、昭和天皇ほど何度も足を運ばれた方は珍しいと思われる。本邸の馬場で練習に励まれ、馬で重寺や黒瀬方面にもお出かけになった。
 また、牛臥山と海の景色など沼津滞在中は、しばしば水彩画を描かれたという。
 大正七年、御用邸前の浜で採集された緋色のエビが新種とされ、和名ショウジョウエビと命名されたこともあった。
 沼津の海、山、川が、昭和天皇の自然観を育んだ可能性は高い。十二歳の時には博物博士になりたいと希望されている。しかし、その願いは叶わなかった。大正十年、大正天皇の摂政となり、昭和の激動に巻き込まれていったからだ。昭和天皇にとって沼津は、まさに揺籃(ようらん)の庭であった。
 今回、「実録」が公になったことで昭和天皇と沼津との絆が想像以上に強く、興味深いものになった。昭和天皇に限らず、沼津御用邸に出入りしていた人々や、そのつながり、縁の場所を「御用邸文化」と、ひとくくりにすれば、非常に多彩で歴史的にも価値のある「沼津の宝物」となる。
 敗戦後の一九四六年に「人間宣言」された後、昭和天皇は全国を巡行された。沼津巡行の際に「沼津は小さい時から馴染みの地だが、こんなに焼けては感慨無量だ」と述べられたという(沼津広報沼津市史)。

 平和憲法の下で象徴天皇となられてからは、公務の傍ら、ヒドロ虫類やウミウシ、貝類の研究で業績を挙げられた。「博物博士」という少年時代の夢は、平和な時代になって叶えられた。
 その平和憲法も、戦後七十年にして揺らいでいる。開戦を回避しようとされた昭和天皇なら、どうお考えになるだろう。

 昭和天皇のほかには、沼津に縁の人物で国家の存亡に関わった例はない、と思っていた。ところが、高尾山古墳が「日本国家誕生時の重要遺跡」で、「卑弥呼のライバルというべき東国の王の墳丘」の可能性が出てきた。日本考古学協会会長による、保存を求める異例の声明も出された。
 西暦二一二〇年頃に築造され、被葬者は二五〇年頃に埋葬されたという。三世紀前半と二〇世紀に日本の国の歴史に深く関わる人物が、沼津という風土の中で生活していた。予想を超えた歴史の展開は実に面白い。
 高尾山古墳の価値は今後の研究で、さらに高まるだろう。道路建設のために破壊するなど断じて許されるものではない。昭和天皇没後二十五年経って刊行された「実録」から新たな事実が分かり、市民にとっての御用邸文化の価値も大いに高まったのだから。
 歴史とは、そういうものらしい。(大岡)
【沼朝平成27年8月8日(土)投稿記事】

0 件のコメント:

コメントを投稿