2020年5月17日日曜日

◆沼津ヒラキ物語⑤ 「発展期にむけての途(みち)」 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語⑤
「発展期にむけての途(みち)」その3
 加藤雅功

 ●干し場の情景 下河原しもがわら)の入町((いりちょうコ)から南部の新玉(あらたま)神社に至るヒラキ加工業者は、元々広い桑畑や田圃(たんぼ)を所有しており、ヒラキの「干し場」の確保にはそれほど苦労しなかった。初期には足場を造って葦簀(よしず)に干したが、後に畳大(3x6)の木枠に網を張り、開いた魚を日光に肉面を見せて並べた。網の目は2cm位で、水切れの良さと裏側(皮目)の風通しの良さを狙った「干し枠」の干し蒸籠(せいるう)が使われた。このセイロの上にヒラキを干し、トロ箱などの空箱を支えに、斜めに立て掛けるようになった。日光が良く当たり、風通しが良く、しかも砂などが被(かぶ)らないような場所を選んで干し上げる。
 最初は渋糸などを張った網だったが、汚れるのですぐに金網になった。ただし塩気で錆(さ)びるので、ビニール被覆やナイロン製も試されたが、今ではステンレス製が普及している。沼津では新規格の金網のセイロが昭和20年代末に導入され、取り扱い易い現在のような3x2,5尺余りの規格に変更されて定着している。
 コンクリート敷きの「ヒラキ場」を兼ねた場合もあるが、このヒラキ加工の作業場に接した場所の「干し場」では、杭(くい)や木製のウマ(脚立)などで足場を造り、水平に置かれた2本の角材(干し竿(さお))の上に干しセイロを何枚か広げる。次に塩汁(しょしる)桶で一定時間漬(つ)け込んだヒラキを水洗い後、漬け蒸籠から干しセイロ上に移し、開いた魚を短時間ながら丁寧に並べていた。昭和30年代半ばに至るまで、外での作業ゆえに、夏場などは上に長大な葦簀を張って日陰を作り、下には玉砂利などを敷き詰めて、地面からの照り返しを防いでいた。
 沼津で普及した干し方は、干し場所を立体的に使うことであった。伊東などでも一部で太い竹が使われたが、強度や耐久性のなさなどの点から、本場の沼津では角材
の普及が進んだ。傾斜角30度前後で、斜めに立てた角材の桟(さん)へ、セイロの干し枠を両手で持って運び、並列で組まれた複数の桟がある中で、2本の角材(1.5x3)の桟に5枚か6枚の干しセイロが押し上げられていた。時には屋根の上の桟にも並び、手仕事ならではの成果ゆえに、「日干しの開き」のその広がりは壮観であった。
 また土地が狭小な場合、少し離れた場所に干し場を新たに確保する家もあり、当時はヒラキで重い干しセイロを何枚もリヤカーに積んで引っ張ったり、開いた魚を漬け蒸籠ごと重ねてリヤカーで大量に運ぶなど、その準備に大わらわであった。このように昭和30年代前半は、外での大仕事が待ち構えていた。
 今のような作業過程で乾燥室を設置し、重油や電気での温風乾燥機の導入が進む30年代半ば以前は、天候に大きく左右される「天日干し」が主流の時代であった。急な雨の際、折角ヒラキを干したセイロを家族総出で取り込むのは、大変な労力を要した。セイロを20枚近く積み上げ、前もって用意したブリキの覆いでブタをする光景は日常的であった。元々晴天時でさえ「開き」の魚が満載のセイロを干す際も6枚ほどを押し上げ、さらにセイロを取り込む際も、桟から落下しないように慎重に滑らせて下ろす作業は重労働であった。
 とくに梅雨時の「干し場」では、一旦セイロを重ねて待ち構えることもあり、欠かせない繰り返し作業のために、急な俄雨(にわかあめ)などがあると慌てふためき、喧騒(けんモう)の中で「取り込み作業」が続いていた。
 その後、ヒラキ製品の選別と箱詰め作業が待っていた。水平に置いた2本の「干し竿」の上で、干しセイロが何枚も並べられ、「五合(ごあわ)せ」か「四合(しあわ)せ」用の薄い木箱に30枚から40枚位を、包装用の白紙(しらっかみ)へと丁寧に揃えて並べる作業が、前もってある程度選別して置き、基準に合わない大きな「体(てい)たらく」(ドタラク)をはねながらテキパキと行われていた。さすが欠陥品は少なかったが、技術面で製品の個人差があり、開き包丁での肉・骨への角度、当て方は工夫が必要で、時に包丁の柄の親指の当たる部分を削ったりもした。
 「切(き)り板(ばん)」の上で開く際に、魚への包丁の当て方から、各部位への切り込み方、さらに腸(わた)・鰓(えら)を引き出す、身を開く、顎(あご)を割(さ)く、頭を割るまでの一連の動きは経験で早く上手になった。魚の骨に当てることもあり、包丁の切れ味が悪くなると砥石(といし)を3つ用いて研ぐ必要があるが、摩粍(まもう)も早くて1年半位で交換した。ヒラキ包丁は地元の「正秀」製のほか、行商の業者が扱ったものとがある。アジ以外ではより大きな包丁も使用する。
 箱詰めの後、規定の高さの木箱を4段から6段、サンマなどでは8段を重ねた。そして横に固定用の細い桟の板を縦に2本ずつ打ち付け、蓋(ふた)に数量(枚数・合せ数) と出荷先の市場名を記し、表面には沼津の名と屋号など「荷印」を筆で墨を浸けて書くか、ブリキなどの金属製の「刷板」(すりばん)を当てて黒墨の着いたブラシで擦(す)ることをした。その後は荒縄で二重に縛って梱包(こんぽう)作業を終了した。
 秋口以降は日暮れ前から、干し場全体を大型の投光器で照らして、黙々とヒラキの選別や箱詰め作業、さらには出荷作業が進められていた。

 ●千本・港湾地区への拡大 この時期になると下河原地区の男衆(おとこし)は魚を買い付ける仲買の資格を得たり、ヒラキ加工の商売の若(わか)い衆(し)が「見習い」から独立したり、さらに結婚を契機に分家したりして、より広い土地を求める必要に迫られていた。当時港湾整備の掘削(くっさく)に伴う砂利(バラス)が大量に得られ、旧水田の低湿地の埋め立て造成地が拡大した結果、総称で後に地区名となった「港湾」に進出した親類・縁者の商店も多く、港湾周辺では新興のヒラキ団地的な様相を呈していった。元の下河原地区から発展して、千本・港湾地区にまでヒラキ加工が拡大する中で、さらに水産加工業として専業化か進んでいった。
 下河原からの分家や縁者の多い千本中町・千本東町付近での事例を挙げると、昭和30年代半ば頃には、区画整理地の一画に個人で斡旋(あっせん)された砂利を1m弱盛り土し、150坪前後の土地を求め、自宅の家屋に接して加工場と広い干し場を確保するのが一般的であった。またボーリング掘削で「掘り抜き井戸」を得て、モーターポンプで常時汲み上げ、数段に分けた広い洗浄用の「池船」(いけふね)に直接流す方式は、下河原地区と同様であった。
 黄瀬川状地の扇端(せんたん)付近に当たる地域では、鉄管で打ち抜いた「掘り抜き井戸」が千本松下町から常盤(ときわ)町・緑町・下河原町にかけての住宅街に数多く分布し、今も土管が高く積まれて使用されている。南部の工業地域でも被圧地下水による「自噴」の後、水位低下でポンプの器械力c電力に頼るのは早かった。ヒラキ加工では開き(内臓除去)の後の洗浄、塩汁潰けやその後の「洗い」に大量の水を必要とする。黄瀬川起源の地(かじめようすい)下水の利用はやがて深井戸となり。その後過剰揚水により「地下水の塩水化」も深刻となるが、当時は資源の枯渇にはまだ関心が薄かった。ただし商店個々でのポンプアップは、当然経費もかさむことになる。
 あくまで基本は家族労働ながらも業務拡大で忙しくなると、ヒラキ加工の「開き手」や「干し手」の必要から、手伝う女性(「女衆」(おんなし))を確保する必要が出てきて、その後、慢性的な人手不足は続くことになる。
 またヒラキの生産拡大ブームの中で、流通に不可欠な木箱が大量に不足し始めた。梅雨時に限らず、ヒラキ製品の出荷用の浅い木箱を釘とカナヅチで組み立てる女衆の「箱打ち作業」が、個々の商店の作業用倉庫からトントンと軽快に響いているのが常であった。杉などの木の香りや高く重ねた浅箱の残映は、やがて断熱効果が優れ、衛生的で流通面でも利便性の高い、軽量の発泡スチロール箱に代替されていった。
【沼津市歴史民俗資料館資料館だよりVol44No.4(通巻225)2020.3.25

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