2020年5月12日火曜日

疫病 浜悠人


疫病 浜悠人

 疫病 疫病とは広い地域に集団的に発生、伝播(でんぱ)する急性伝染病を言い、全身的な症状を示し、急性的経過をたどる。現在では流行病と呼ばれることが多い。
 種類として、ペスト、マラリア、痘瘡(天然痘)、麻疹(はしか)、発疹チフス、腸チフス、赤痢、コレラ、インフルエンザ、それに新たに新型コロナウイルス感染症が加わった。
 慢性伝染病としては、ハンセン病(らい病)や結核があり、さらに梅毒が挙げられる。
 疫病史人類の歴史が始まってζのかた、人間の生死を左右した最大の原因と言えるのが疫病であり、戦争や天災の死因をはるかに上回り、人間の歴史に与えた役割は極めて大きい。
 ヨーロッパの疫病の歴史をたどれば、13世紀のハンセン病、14世紀のペスト、16世紀の梅毒、1718世紀の痘瘡、発疹チフス、19世紀の結核、コレラ、20世紀のインフルエンザと、それぞれの時代の社会なり文明なりは、それ特有の疫病を持っており、疫病は、その文明の変革、社会の改革によって消滅していくか、次の時代には別の疫病が出現してくることが分かる。
 また、疫病は戦争や天災、貧困と深い相関関係をもっている。
 中世末期とペスト、ルネサンスと梅毒、産業革命と結核、近代化とコレラのように、時代の激動期、社会の変革期に新しい疫病が出現し流行するという歴史的因果関係も分かる。
 日本の疫病史翻(ひるがえ)って、我が国の疫病史をたどれば、奈良時代に天然痘が大流行した。
 天平七(七三五)年から九(七三七)年にかけ、九州から全国に広がり、奈良平城京では役人の大多数が罹患した。藤原四兄弟から成る政権も崩壊し、反藤原氏的な橘諸兄の政権が誕生した。
 聖武天皇は疫病の蔓延や天候不順による飢餓、大地震の悩みから東大寺の大仏造営に着手し、仏法の威霊によって天地が安泰になるよう祈った。
 また、聖武天皇の.后、光明皇后は奈良法華寺に施薬院、悲田院を付設し救済事業を行った。先年、私は法華寺を訪ね、光明皇后が、らい病者に役立てた湯屋(浴室)を見学した。
 奈良時代以後、疫病は疫神、疫鬼、怨霊の仕業とか、あるいは、神罰、仏罰といった見方があり、それらの疫神などを慰撫し、追放するため御霊会などが執行され、経典の転読や加持祈祷がなされてきた。
 一方、庶民は無病息災を祈り、六月三十日の茅の輪くぐりや七月の京都祇園祭と、その風習が受け継がれてきた。
 沼津の疫病 沼津地方にはコレラが明治十一(一八七八)~十二(一八七九)年、十五(一八八二)年、十九(一八八六)年と大流行した。
 十二年の時のそれは全国で死者十万人以上に達した。
 沼津では八月から十月にかけて約五十人の患者が発生、二十六人が死亡した。
 また、十五年の時には患者八十二人が発生、二十一人が死亡した。
 各町村では、それぞれに対策が取られ、十二年九月、西沢田村では、村内の三町内をそれぞれ三組に分け、九つの組ごとに予防に当たり、患者発生時には直ちに委員に届け出、消毒には石炭酸を使用。親類に死者が出た場合でも悔やみに出向くことは禁止し、死者は一つの埋葬地で火葬にすることなどの予防規制が定められた。
 当時は、警察が衛生行政を担っており、コレラ予防に奔走、殉職した二人の沼津警察署の巡査がいた。富士吉信と入山熊太郎で、二人の死は命をかけて近代医療、衛生行政の普及に努めた結果であると賞讃され、明治十三(一八八〇)年九月、顕彰碑が建てられた。
 先日、その碑が千本緑町の長谷寺境内にあることを知り、早速訪れた。篆額には「富士入山弐氏乃碑」とおぼろげながら読めたと同時に、私は二人の行動に感激した。そして現在新型コロナウイルスに立ち向かうため、私達にできることは「ズテイホーム」しかないと、深く思った。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2512日(火)寄稿文】

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