明治・大正時代の下河原(沼津魚仲買商協同組30年史)
明治時代までは狩野川河口一帯は葦のはえる沼地であった。明治二十年代、下河原農家は各自舟を有し手ぐり網漁を行っていた。手ぐり網は二人から四人で漁ができたので、一軒または二軒で手ぐり網を三ケ持ち合わせ、農業は農閑期の合間に行う、いわば半農半漁の生活であった。当時の下河原の戸数は六〇軒程度で、漁業のみでは生計が立たず、桑畑をもち養蚕業も兼ね営んでいた。
旧下河原といわれた入町から新玉神社までの裏一帯は桑畑で妙覚寺・妙海寺・西光寺などのお寺さんに囲まれており、さらにお寺の裏が下河原の田ん圃であった。また子持川は下河原田ん圃の農業用水として引かれていた。
新玉神社から先は、竹藪や雑木が狩野川の堤防添いに生い茂って、いまの姿からは想像もできないが、昼なお暗い雑木林が狩野川河口の大松林までずうっと続いていた。そのためよく狐や狸が人家に姿をみせたので、次来、この通りを狐道(きつねみち)と呼ぶようになった。㈱田藤水産から先は、三軒家と呼んで三戸の農家しかなかった。それから先は桑畑が蛇松から狩野川河口まで続いていた。
明治四十年、子持川添いには如来堂の丘・妙見堂の丘・観音堂の丘があって、それぞれ沼津の三名松が生い茂り丘添いにかけては桑畑であった。長谷寺観音堂から子持川下流までは広い田ん圃になっており、その中を蛇松線が走っていた。
千本浜では漁師二〇人から三〇人が天王網(てんのうあみ)(地引き網)を引いていた。
日清戦争以後、次第に社会万般の様相も変わっていき、日露両国の間に風雲急を告げると共に、若い者は徴兵に、あるいはまた工場へ働きに出掛ける者も多くなった。そのため農家は人手も少なくなり同士が相寄り組作りをして、千本浜海岸に網小屋や網倉を建設、西天王・東天王と二つの組が作られた。当時は組頭を大将と呼び、各世話役が選ばれ運営された。春の四・五月は鯛網、秋はいなだ・鯖網を用い、秋からは鰯漁を行った。
千本海岸で水揚げされた魚は、籠に入れ荷車に積み込み宮町の魚河岸へ、大量に捕れた時は「エンヤ、エンヤ」と掛声も勇ましく狩野川を漕上って魚河岸まで運ばれた。
大正初期、西天王網は沖引網漁法を取り入れ、当時としては大型の巾着網船二隻を新造、小取舟二隻引率用発動機船を導入、巾着網船団を設けた。湾内各所に出漁し、大漁織の旗も勇ましく、宮町河岸に乗り入れるようになった。鰯は九割までが加工用として取り引きされた。そのため河中で舟を錨止めして、沖取りという方法で取り引きが行われた。各加工屋は平板舟という川舟を持っていたので、漁船に平板舟を横付し、斗桶(水の抜ける穴がある丸い桶)や県認知の焼判のある計り桶(県知枡四貫一五キログラム)で受け取った。これらを一杯よ、二杯よと大声でいう数読の声が、朝早くから北風の吹く川面を伝って聞こえた。どういうわけかこの作業中には真冬でも漁師は裸であった。
そのため宮町から下河原新玉神社近所までの河岸は、加工問屋で占められ栄えた。大鰮(おおいわし)の時は塩漬とし、船に積み込み日本橋まで運ばれた。脂の少ない時は煮干、脂の多い時は締粕(しめかす)とし、脂は燈油や各種の原料とし、締粕は飼料や肥料として販売された。それらは甲州や上州方面まで売られた。
加工問屋は煮干釜や締台器などの取付工場となって工場の裏は石段で、船は干満の心配なく河岸に付けられ釜場に水揚げされた。宮町では山本庄八、下河原では大印大熊初次郎・「庄木村庄七・サ加藤定吉・よ大熊米吉・三金子虎吉・「エ増田亀太郎・六露木徳次郎他数氏が煮干締粕塩造物などを手掛けた。
鰹節では旧下小路、旭町にⅢ印内村喜衛門、宮町に三綾部市郎・(や)増田弥平他五軒、中でも三綾市商店は煮干の削り加工を手掛けた。このように下河原には、魚の加工場を持った業者が多かった。
明治時代には、仲買人の買い残した魚を漁師がひらきにし、自家消費の形で作っておかずにしたり、得意先に分けていた。
すでに大正七~八年頃になると、下河原の地元漁師たちがひらきの製造をしていたともいわれている。
当時の製法は、魚の腸を手で出し、水樽に塩を入れ掻き混ぜ、ひらいた魚を水樽の中に入れておいたために、夏場などは早く傷むことが多かった。
大正十年、問屋制度に終止符がうたれ、沼津魚仲間も大きな変化をきたすのであった。
丁度その頃、小田原から沼津の下河原入町に移り住んださ飯沼佐太郎氏が、大正十二、三年頃、小田原方式のひらき加工をはじめた。従来の製造方法との大きな違いは、①包丁で腸を出すようになった。②塩汁を使用した。③生ぼし天日乾燥であった。この方式が次第に普及し、下河原の農家の人々の副業となり、ひらき加工の商売の道が順次開かれていった。
下河原の半農半漁民は、さ小田原屋が製品化して売り出す話を聞いて、ひらきならば家内工業として成り立つことを知り、夏は養蚕業、春と秋はひらき加工業として歩み出した。
さ小田原屋がひらきを東京に出荷し始めてから「杉源商店など数軒が、ひらきの生産を研究して出荷するようになった。このようにひらきの加工は、さ小田原屋を中心として新玉神社付近まで発展していった。
戦前までの狩野川は、水が綺麗で川底に落ちた釘でさえも見えるほど透き通っていた。旧魚河岸の宮町と下河原の間には、所々に"出し"があり、宮町の出しとか花月の出しなどとよばれるものがあった。出しと出しの問は、水の流れが一時的に止まって静かになり、魚の洗い場として好適であった。ひらき加工業者は、樽に入れた魚を長籠に移し変えて、長籠の両方の紐をもちごしごし洗ったので傷む魚が多かった。
戦後は、八○岩本善作氏がこれではいけないといって桶を船大工に作らせ、蒸籠(せいろう)といわれる道具を使うようになった。 (加加藤角次郎氏談)
下河原入町から新玉神社周辺のひらき業者は、広い桑畑や田ん圃を持っていたので、ひらきの干し場には苦労することはなかった。ひらきは桑畑や田ん圃に足場が作られ、よしずによって干された。その後は、三尺×六尺の金網の上に並べて干すようになった。
ひらき製造は、一年のうちで三月から五月と十月から十二月の年二回、計六カ月間作業できた。残りの六ヵ月は、鰺などの原魚が水揚げされなかったので仕事にはならなかった。
また、ひらきは天日干しだったため、天候に大きく左右され、急に雨が降り出すと家族総出で、ひらきを取り込むのに、猫の手も借りたいほどでまるで戦場のような忙しさだったという。こうしたことに対応するためひらき生産に乾燥機を使うようになったのは、昭和三十年代中半であった。(五鈴木房国氏談)
ひらき製造業者はひらきをさ小田原屋製法(ひらきを塩水に漬け天日干し)で始めてから、むろ鰺が伊豆の棒受網や巾着網によって大量に捕れると共に、これを加工するひらき製造業者が次第に増えていった。
戦前、沼津のひらきは主として東京・横浜方面に出荷していたが、生産量が次第に多くなり、関東一円では捌ききれなくなった。当時は沼津魚仲間組合があって、両毛線方面から三陸・名古屋・京都・大阪方面まで、ひらきの販路拡張を図るための宣伝が行はれた。そのような努力が実を結び、全国各地へひらきの販路が延びていった。
戦後、沼津のひらきは、鮮魚を取り扱う組合役員の宣伝による効果も大きく、それが日本一のひものとして、評価される道を開いたものといわれている。(□■山内新助氏談)
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