2020年5月17日日曜日

新たに確認された中村氏次(なかむらうじつぐ)(一栄) (げしげ・ひで)の文書





 新たに確認された中村氏次(なかむらうじつぐ)(一栄) (げしげ・ひで)の文書
天正18(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の滅亡後、北条旧領関八州に移封(いほう)されて江戸に移った徳川家康に代わり、駿河国には豊臣秀吉の家臣、中村一氏(なかむらかずうじ)が近江水口(おうみみなくち)から移った。沼津三枚橋城には、3万石を分与されて弟氏次(一栄)が入ったとされている。
 しかしながら、妹婿(いめとむニ)で家老とされる横田内膳正村詮(よこたないぜんかみむらゐめ)の発給文書は多く残されているのに比して、式部少輔(しきぷしょうゆう)一氏、彦左衛門氏次の発給文書は僅かで、現在確認されている氏次の文書は4点しかなく、しかも原本は1点である。
 本年1月に開催した中村一氏・氏次に関する歴民講座の際に講師の柴裕之さんから、中村氏次の文書が愛知県下の資料集に載せられているのを見つけたことを知らされた。「駿河志料」(すらがしりょう)に載せられている一栄の複雑な花押(かおう)が特徴的で、誰の文書かわからないまま収録されているとの事であった。その後、出典も教えていただき、直ちに所蔵者の小牧市小松寺(こまきしこまつじ)に連絡を取り、文書集を発行した小牧市教育委員会から写真を提供していただいた。
 昨年末に静岡市が徳川家康から中村氏次・横田内膳宛に出された文書を購入したことが報道されたが、これにより、慶長5(1600)717日に一氏が没した後、幼いその子一学(いちがく)に代わり、727日に家康から二人に領国統治の代行が認められたことが明らかとなった。
 今回確認された文書は、石田三成(いしだみつなり)等の挙兵に対し、西上した氏次率いる中村隊が一時、集結地の清洲(きよす)に近い小牧の小松寺周辺に駐屯(ちゅうとん)していたことを示している。「徳川実紀(とくがわじっき)1によればこれ以前、家康が会津上杉景勝討伐に向けて下向(げこう)の途次、駿府(すんぷ)の横田屋敷で一氏から病身の自分に代わり弟一栄(氏次)を従軍させることを懇願されて許し、翌日家康は三枚橋城で一栄に面会して1兄の陣代(じんだい)として参陣することを命じたとされている。
 その後の氏次の動向は明確ではないが、726日には東軍に加わった諸大名が下野(しもつけ)から西進を開始しており氏次率いる中村隊も西上したものと見られている。関ヶ原合戦絵巻の清洲軍議の図には、中村氏次が参列している様子が描かれているものがある。
 その後、中村隊は914日に関ヶ原合戦の前哨戦(ぜんしけせん)と言われる大垣(おおがき)城外杭瀬川(くいせがわ)合戦で三成方の島左近(わしおピこん)等と戦い、大敗することになる。
【沼津市歴史民俗資料館資料館だよりVol44No.4(通巻225)2020.3.25

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