コロナウィルスと天然痘 江本宗昭
今年二月、大型クルーズ船「ダイアモンド・プリンセス号」での新型コロナ感染者の増加が、毎日テレビに映されていくに従い、日本での感染が現実味を帯びてきたと、おぼろげに感じていました。
あれから二カ月、日本では日々感染者が増え、四月七日に七都府県に緊急事態宣言が出され、ご承知の如くウィルスの猛威との経験のない闘いが続いています。
天然痘ウィルス 天然痘ウィルスは、はるか天平年間に大陸から侵入したとされています。以降十九世紀まで大流行を繰り返し、江戸時代末まで天然痘(疱瘡=ほうそう・痘瘡=とうそう)は、子どもが必ずかかる小児病と恐れられていました。
天然痘は、天然痘ウィルスによる飛沫感染や接触感染で始まり、およそ十二日間の潜伏期間(感染しているが症状の出ない期間)を経て、急激に高熱を発し、頭痛、腰痛に苦しみ、顔面に痘痕(あばた)が出来、全身に広がります。感染率、死亡率(患者の25%~50%)は高く、当時は三十年に一度の割合で流行しました。
一八五七年から五年間、長崎海軍伝習所の医学教授を務めたボンベ・ファン・メーデルフォールトは、「日本ほど痘瘡のある人が多い国はない。住民の三分の一は痘痕があるといってよい」と書いています。
それゆえ、患者と接触を持たないようにするため、誰かが天然痘に罹(かか)ると、その一家は、村から追い出されることもあったほど、世間から恐れられ、嫌われた病気でありました。
伊達政宗の独眼も吉田松陰の痘痕も天然痘で出来たものであったと言われています。
かつて天然痘は、人間の穢(けが)れを怒る神の崇(たた)りだと思われていましたが、擬人化されて「疱瘡神」と呼ばれるようになりました。この「疱瘡神」は、赤い物が苦手だとされ、子どもに赤い着物を着せたり、身の回りに赤いおもちゃの「赤ベコ」や「さるぼぼ」が置かれたりしました。
ワクチンの開発一七九六年、イギリスの医師ジェンナーは、乳搾りの女性が決して天然痘にかからないことに注目し、八歳の少年に牛からとった疱瘡の種(ワクチン)を植え付ける「植え疱瘡」(種痘)で抗体を作り、軽い症状で済むことを突き止めた。この時、ラテン語のvacca(牛)に基づき、ワクチンという用語が誕生しました。人類初のワクチンである天然痘ワクチンが開発され、種痘によって天然痘を予防する道が開かれました。
日本では、享保十五(一八二三)年、シーボルトが来日した際、牛痘苗を持参し、日本人に接種しましたが遠くヨーロッパの牛痘のため不成功。嘉永二(一八四九)年、牛痘苗はオランダ領インドネシアのバタヴィアから入るようになり、種痘に効力があるということが広まっていきました。
江川太郎左衛門と種痘『植松家日記見聞雑記巻一』には、嘉永三(一八五〇)年二月二十一日、韮山代官江川太郎左衛門からの「覚書」が載っています。これは、蘭学知識人であった太郎左衛門が同年一月、伊東玄朴に依頼して息子の江川英敏と娘の卓子に種痘をさせたこと。この結果を良好と見て部下の肥田春安に試行させた上で、伊豆地域の自身の支配領に「西洋種痘法の告輸」を発しました。
覚
痘瘡一般流行致し侯みぎり、何よう手当いたし侯ども平均十分の一は身命をあやまち候につき、西洋人工夫いたし牛の痘瘡をもって人に種え候ところ、数年来の内一人も過ちこれなく、もっともその種を持ち渡りそうらえども、海上絶遠の風波をしのぐ候ことゆえ、その功もこれなくところ、唐土の人(オランダ人)に右痘の種を昨年国地え持ち渡り、旧冬より江戸表において種痘いたし、追々あい広まり候内一人として過ちこれなく、右は此の度自分娘倅えも種痘ためし候ところ、誠に軽痘にてその外屋敷内子供も同様につき、いささかの懸念これなきこと候ゆえに、志(こころざし)これある輩(やから)は肥田春安え申し出て種痘いたし申しべく候。もっとも種痘の発病の真偽の見分け発熱の次第出痘より結痂(かさぶた)になるの法則これあるところ、それらの言うことなく、みだりに種痘いたし候むきにこれ有るやにあい聞き、先年も右ようの義これあり人命にかかわることに付き、右のてい紛らわしく種痘はいたすさじく候、右の事情よくよくあい心得農民すえずえまで、もらさずようさとし申し、回状早々順達とめより返すべく候以上
嘉永三年二月二十一日 江川太郎左衛門印
嘉永二年から三年にかけて天然痘が大流行しました。太郎左衛門は、すぐにシーボルトから医学を学びオランダ医学書『牛痘種法篇』を翻訳した伊東玄朴の提言を採用して管内に種痘を実施しようとしました。
種痘と言っても、この時代の人々は、牛から採った疱瘡の種を自分の体内に入れることを怖がって誰も受けようとはしませんでした。
種痘の効果が知られていないこの時、幕府のお偉いさん達も西洋式の種痘を不安視していました。いろいろ考えた結果、太郎左衛門はジェンナーにならって、まず自分の子どもに種痘をして安全を証明することを考えました。
嘉永三年一月、江戸の代官役宅において息子秀敏と娘卓子に種痘を受けさせて安全を確認し、それから領民への告諭をしたのでした。
太郎左衛門は、新鮮な牛痘が入ってくるようになった嘉永二年、すぐさま種痘を取り入れて子どもの命を救おうとしました。身分制度の厳しい時代、分け隔てなく申し出があった,全ての人々に種痘をすることを目指し、結果、他国に比べて天然痘の被害はわずかでありました。
焦らず、忍耐強く、我が身を犠牲にして「先見の明ある決断」で難病に苦しむ領民を救済したのでした。
『原宿植松家日記』には、嘉永六(一八五三)年二月十七日、植松家八代当主興右衛門季敬と妻美地(道子)は、娘お多太の種痘のため沼津藩軍医の武田寛吾氏を訪ねたという記載があり、領地に種痘が広まっていきま
した。
結び今、全容が明らかでない新型コロナウィルスと最前線で闘っている医療従事者、保健所の職員、多くの関係者の皆様が、感染の恐怖の中、「無私のこころ」で身を削りながら命と向き合っています。
天然痘は、一九八〇(昭和五十五)年、「地球上からの根絶宣言」がWHO(世界保健機関)から出されました。同じように新型コロナウィルス禍も、人間の英知と努力で必ず切り抜けられると思います。私達の先達は、素晴らしい忍耐と犠牲心と「先見の明」で克服してきています。
心を一つにして、私達も、この難局に立ち向かいたいと思います。
(徳源寺住職、原西町)
【沼朝令和2年5月3日(日)寄稿文】
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