2020年1月10日金曜日

足柄峠 浜悠人



足柄峠 浜悠人


 先日、足柄峠を訪ねた。峠は、小山と小田原を結ぶ箱根山の旧道に質峠の謂(いわ)れは次のようであった。
 「古代、足柄峠は都と東国とを結ぶ要路であった。大和朝廷の昔、日本武尊が東征の帰路、この峠に立ち弟橘姫をしのんで"あづまはや"と叫んだという記述が古事記にある。奈良時代東国の任地に赴く役人たちが、ここで都に最後の別れを告げ、また防人の任におもむく東国の農民たちも、この峠で故郷に残した肉親を思い、心の叫びを詠じている。こうした万葉人の痛切な声は時代を越えて今もなお私たちの胸をうつ…」
 峠から矢倉岳に向かう途中に万葉広場を見つけた。広場には点々として七カ所に万葉の東歌(あずまうた)の歌碑が刻まれていた。東国の人達が詠んだ歌を東歌といい、万葉集巻十四には二百三十首程がある。
 また、防人(さきもり)のため徴用されていた兵や、その家族が詠んだ歌は百首以上が万葉集に収録され、東歌と共に古代の生活様相を伝えている。
 防人なるものの成立や制度について記すと、西暦六六三年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍(日本軍)が、自村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に唐が我が国に攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のために設置された。
 「さきもり」という読みは、古来、岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
 防人の任期は三年で、往復の食糧と武器は自弁であった。大宰府が指揮にあたり、壱岐、対馬および筑紫の諸国に配備された。当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除されることなく、農民にとって重い負担であった。徴集された防人は九州までは係が同行するが、帰郷の際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。
 足柄の万葉広場の東歌や防人の歌碑を紹介する。
 ○足柄の御坂(みさか)に立して袖振らば家(いは)なる妹(いも)は清(さや)に見もかも
 この一首は、埼玉郡(こごうり)の藤原部笄母暦(ともまろ)が詠んだもので、「防人として足柄山のみ坂に立って袖を振ったなら、家に残った妻は、それとはっきり見るだろうか」と妻への別れを惜しんだ痛切な思いが詠まれている。
 ○わが背子(せこ)を大和へ遣りてまつしたす足柄山の杉の木()の間か
 右の一首は、夫を勤番として大和へ送り出した妻の歌である。その意は、「夫を大和へ送り出してしまった私は足柄山の杉の木の間に立って待っています」というもので、「まっしたす」は「松」に「待つ」を掛けたのであろう。
 また、歌碑にはないが東国の任地に赴く役人の歌。
 ○足柄の箱根飛び越え行く鶴(たづ)の乏(とも)しき見れば大和し思ほゆ
 この歌の意は、「足柄から箱根の山を飛び越えて西へ向かう鶴の数少なく寂しげなのを見るにつけ、大和がひとしお偲ばれる」というもの。
 広場にある七つの歌碑を巡り、全てを紹介したいが、今回は、このあたりで結びとしたい。
 足柄峠の謂れの最後に、「ここ足柄峠は標高七五九㍍、当時の旅人たちは畏怖のあまり思わず"足柄の御坂かしこみ"と峠の神に手向けせずにはいられなかったというが、往時の森厳さと神秘感、寂寥.感は今もその名残りをとどめている」
 (歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年1月10日(金)寄稿文】

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