2020年1月2日木曜日

三枚橋城主中村一栄関係の書状 静岡市が発見して購入 沼津の郷土史にも重要な価値(沼朝元旦号)


三枚橋城主中村一栄関係の書状
 文面知られていたが現存明らかに
 戦国時代の沼津市域については研究の進展や新たな発見が続いている。一昨年には武田氏による興国寺城防備に関する古文書の「天神瓦御門」という語釈が「天神尾御門」に改められ、意味の通る文章となった。さらに昨年10月、静岡市は三枚橋城主中村一栄(なかむら・かずひで)に関する古文書の原本が確認されたと発表した。
 静岡市が発見して購入
 沼津の郷土史にも重要な価値

 1579年に武田勝頼によって現在の沼津市大手町の地に築かれた三枚一橋城は、天下統一の過程に合わせて城の主も相次いで変わった。
 武田氏滅亡後は徳川氏の支配下に入り、家康家臣の松井忠次(松平康親)が城代として三枚橋城に入った。その後、豊臣秀吉の天下統一による徳川氏の関東移封に合わせて駿河国の主が秀吉家臣の中村一氏(なかむら・かずうじ)になると、一氏は弟の一栄(氏次)を三枚橋城主とした。関ヶ原の合戦で徳川氏が国政の主導権を握ると、中村氏は伯耆国米子(鳥取県米子市)に移り、家康家臣の大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)が三枚橋城主となり、忠佐の死によって同城は廃城となった。
 中村一氏は早い時期から秀吉に仕えた武将で、1584年に初めて城主となって岸和田城(大阪府岸和田市)に入り、秀吉の甥、秀次の側近となった。1590年の秀吉による北条征伐では、秀次軍の一翼を担い、山中城(三島市)の攻防戦で活躍した。この手柄が評価され、同年中に駿河一国を与えられて府中城(現在の駿府城)の城主となった。
 一氏は駿河国内の諸城に一族や重臣を配置し、三枚橋城には弟の一栄、興国寺城には河毛重次、田中城(藤枝市)に横田村詮(よこた・むらあきら)を派遣した。横田は田中城の領域だけでなく、駿河全体の行政も担当した。
 1600年、豊臣政権内の対立が激化し、一触即発の状態となった。一氏は関東を本拠とする家康に対する抑えの役割を期待されて駿河を与えられていたが、このころになると家康を支持するようになっていた。自身が病床にあり、さらに嫡男の忠一(ただかず)が幼少であるため、家康を頼ることで中村氏の安泰を図ったという。
 石田三成の盟友の大名上杉景勝を討伐する名目で家康が会津(福島県)に向けて軍を進めると、一氏は病身の自分の代理として一栄を援軍に派遣した。そして、間もなく病没した。
 この時、小山(栃木県小山市)に駐留していた家康は、一氏死去の報を受けると、一栄に書状を出した。その内容は、駿河国と中村軍の管理を一栄と横田村詮に任せるというものだった(*)
 この書状は、江戸時代後期に書かれた郷土資料集『駿国雑志』に文面が転載されているが、その実物が現存していることは知られていなかった。昨年夏、静岡市が東京の古書店で書状が売り出されているのを確認し、約130万円で購入した。同市は歴史文化施設開館の準備として展示史料の収集をしており、その一環だという。
 実物の発見により、駿国雑志の転載では未記載だった書状差し出しの日付が判明した。転載された文面では7月としか記載されていなかったが、書状の実物には727日の日付の記載があった。宛て名でも、転載の文面では一栄の名が「彦右衛門」となっていたが、書状には「彦左衛門」と書かれていた。
 今回の発見は、沼津の郷土史においても重要な価値がある。三枚橋城の城主だった一栄には、現存する関係又書が少ないからだ。
 市歴史民俗資料館の鈴木裕篤さんは「今回の発見を通して、これまであまり知られてこなかった一栄に光が当たるようになれば」と話している。
 (*)原文は「就式部少輔死去、其国諸仕置等、並軍法以下之儀、式部少輔如被申付、無沙汰有間敷候。恐々謹言。七月廿七日家康 花押 中村彦左衛門尉殿 横田内膳正殿」
 書状本又の現代語訳は「式部少輔の死去につき、その領国の処置や軍の管理は、式部少輔が申し付けたように行い、おろそかにしないようにしなさい」
 文中の式部少輔は中村一氏、中村彦左衛門尉は一栄、横田内膳正は横田村詮。難村彦左衛門尉殿 横田内膳正殿。

 関ヶ原後の中村氏はー
 米子移封も嫡子なく改易
 家康から書状を与えられた中村一栄は、病没した兄に代わって中村氏の軍勢を率い、関ヶ原の合戦に東軍として参加した。ただ、彼は関ヶ原の本戦ではなく、前哨戦の杭瀬川の戦いで歴史に名を残した。
 当初、西軍は関ヶ原の東にある大垣城(岐阜県大垣市)に集結して徳川家康率いる東軍を待ち構えた。

 これに対して家康は城の向かいにある岡山に本陣を置いた。それまで家康は自分の居場所を知られないように静かに行軍していたため、家康の突然の出現は大垣城の西軍を大いに驚かせた。
 この時、西軍主将である石田三成の部下に島左近(しま・さこん)の名で知られる武将がいた。左近は西軍の動揺を鎮めるために、西軍の強さを見せつける小競り合いをやるべきだと提案した。
 そして、左近はわずか500の兵を率い、両軍の間にある杭瀬川を渡って東軍の前に現れ、挑発した。これを見た一栄は中村隊を出撃させて左近隊を攻撃した。戦いが始まると左近隊は退却を始めたので中村隊は追撃したが、これは左近の計略だった。
 わざと負けたふりをして逃げる左近隊を追いかけた中村隊は、西軍の待ち伏せを受けて大敗した。指揮官の野一色助義(のいっしき・すけよし)など、身分の高い武士だけでも30余人が戦死したという。

 この様子を見て東酉両軍が援軍を出し合って戦いが拡大したが、形勢不利を感じた家康は東軍に退却を命じ、杭瀬川の戦いは西軍の勝利に終わった。
 その翌日、大垣城攻略は困難と感じた家康は、城を無視して西に向かい、西軍も城から出て西へ向かった。両軍は関ヶ原で激しく戦い、家康率いる東軍の勝利となった。この本戦では、中村隊は東軍後方の防備を担当しており、中村隊が活躍することはなかった。杭瀬川の戦いで中村隊を破った島左近は、石田三成の西軍本陣を守って激戦の末に戦死している。
 なぜ、中村一栄は島左近の挑発に乗ったのか。 この背景には、当時の中村氏が置かれた微妙な立場があるのかもしれない。
 一栄の兄の一氏は豊臣秀次の側近として活躍したが、秀次は豊臣政権内で失脚し、自殺に追い込まれている。このため、一氏は政権内で後ろ盾を失っていた。
 さらに徳川に対しても、駿河を領地とした中村氏は関東の徳川氏の見張り役という立場であったため、徳川側から見たら潜在的な敵であった。
 こうした不安定な立場から脱却して親徳川の姿勢を鮮明にするため、中村隊は東軍の一角として積極的に戦う姿を家康に見せようとした可能性がある。
 戦後、中村氏は伯耆国米子に転封となり、石高は駿河時代の145000石から3万石の加増となった。この米子藩では藩主の忠一が幼少であったため、横田村詮が後見役として政務を担当した。一栄は重臣として現在の鳥取県琴浦町にあった八橋(やばせ)城の城主となった。
 しかし、やがて忠一は横田を邪魔者扱いするようになり、1603年には忠一が横田を自ら殺害する事件が起きている。これにより藩内は横田派と反横田派による内乱状態になり、忠一は隣藩の助けを得て鎮圧した。
 横田家では、剣豪として知られる柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)の兄宗章(むねあき)を客分として招いていた。宗章は横田派のために奮戦の末、討ち死にしている。
 横田騒動の翌年、一栄死去。騒動で一栄が活動した記録はないため、すでに一栄は病床にあったと見られる。
 忠一は1609年に20歳で病死し、跡継ぎがなかったため、米子藩は改易された。
 この4年後、沼津でも三枚橋城主の大久保忠佐が跡継ぎのないまま死去し、沼津藩が改易となっている。
 ◇
 一栄には息子の栄忠(家嗣)がいた。栄忠を忠一の跡継ぎにして大名としての中村氏の再興を求める動きもあったが、改易後の米子城の明け渡しの際に資産を隠した疑いで栄忠は追放処分となってしまい、中村氏再興の望みは絶たれた。
 その後、栄忠は倉吉(鳥取県倉吉市)に移った後、駿河の清見寺で僧侶となっている。
 栄忠は八橋の体玄寺に父一栄の墓を建て、倉吉では一栄の菩提寺として大岳院を建立した。
 一氏・一栄の兄弟には、右近(重友)という弟がいたとされ、右近を歌舞伎の中村家の先祖とする説がある。
 (参考文献 笠谷和比古『戦争の日本史17関ヶ原合戦と大坂の陣』、『沼津市史』、中村忠文『中村一氏・忠一伝』)
【沼朝2020(令和2)11(水曜日)

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