2020年1月12日日曜日

「豊臣大名中村一氏の駿河支配と沼津地域」講師:柴裕之先生 録音動画


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豊臣譜代大名中村家の駿河支配と沼津地域
①中村一氏
・中村家の本国は尾張国と伝わり(『断家譜』ほか)、一氏の生まれも尾張国とされる(「本荘元子氏蔵中村系図」『新修米子市史』第8巻資料編近世1)。
・生年は不詳。通称は孫平次。
・羽柴秀吉の家臣として、その活動がみられだすのは、天正10年(1582)6月13日の山崎の戦いで惟任(明智)軍を打ち破るという奮闘した一人として管見(「金井文書」『豊臣秀吉文書集』512号文書)。
・天正11年(1583)の伊勢攻めや賎ヶ岳の戦いに従軍。戦後、和泉岸和田城(大阪府岸和田市)の城主として活動する(「中村孫平次岸和田城主」『貝塚御座所日記』天正11年7月16日条)。
→秀吉居城の摂津大坂城南面の守衛を担当する。
・天正12年(1584)には、敵対する紀伊根来寺衆・雑賀衆を岸和田で迎撃する。→翌天正13年の紀伊攻めでは、秀吉軍の主力として活動。
・天正13年5月、和泉国岸和田から近江国甲賀(滋賀県甲賀市)へ移封(『貝塚御座所日記』天正13年5月8日条)、近江水口岡山城の城主となる。
・同年7月11日、秀吉の従一位関白叙任に伴い、従五位下式部少輔となる(『歴名土代』)。
・同年閏8月、羽柴秀次が近江八幡城(滋賀県近江八幡市)の城主となり、秀次付の武将となる(『四国御発向並北国御動座記』)。
・天正18年(1590)の小田原合戦では、総大将の秀次のもと伊豆山中城(静岡県三島市)の攻略に戦功をあげる。
②中村家の駿河支配と沼津地域
・天正18年(1590)7月、小田原合戦後、中村一氏は尾張国に入封することになった豊臣一門大名の羽柴秀次に附属された豊臣譜代大名として駿河国を与えられる。
・豊臣政権期の駿河国(15万石)は、一氏の領国(14万5000石)と羽柴家蔵入地(5000石)で構成(『当代記』)。
→文禄4年(1595)7月には蔵入地分が加増され、駿河一国が中村領国となる。
・居城は旧徳川家の居城でもあった駿河国駿府城(静岡県静岡市)。
・秀吉による領国内の徳川期の債務破棄(徳政)の実施(「尊経閣古文書纂編年文書」『愛知県史』資料編13織豊3所収)。また重要寺社領については、天正18年(1590)12月に秀吉から所領・権益保証がなされる(池田照政を除く他の秀次付東海諸将の豊臣譜代大名も同様【史料6】)。
・領国における家臣への所領給与(【史料4】)、寺社領の給与・権益保護、国役(主として普請)賦課1職人統制、通行管理(【史料5】)などを、中村家が領国大名として実施。
・秀吉とその側近(豊臣政権中枢)は、中村家に重要寺社領や領国外の活動について指示を下すが【史料6~8】、領国支配は中村家の判断に基づく統治=自治に委ねられる。
基本的に政権の領国運営への介入は支障のない限りおこなわれない。
・豊臣大名の特徴
…領国運営の一方で、臣下として軍事・在京奉公を勤める。このため大名当主不在の状況が出現。→後継者の代行、宿老や吏僚的家臣らによる領国支配の遂行。
・中村家の場合も、前述のように当主一氏は秀次付東海諸将の一人として活動し、秀次が関白となると在京奉公が求められる。
→一族や重臣が領国運営を担う。そのなかでも中心的に担ったのが、宿老の横田村詮(よこたむらあきら)。
・横田村詮
…阿波三好家の家臣、一氏に才能を見出されて登用され、妹婿となったうえ、領国運営を担当する宿老として活躍(『中村一氏記』)。また、駿河田中城(静岡県藤枝市)の城代も兼任。
・一氏に代わり、不在時の領国運営を主導。その活動による発給文書数は100点以上におよぶ。
→中村家による駿河支配は実質は横田村詮主導のもとで実施。
・中村家による沼津地域支配
…三枚橋城に弟の中村氏次(うじつぐ)(のち一栄(かずよし))、興国寺城に重臣の河毛重次(かわげしげつぐ)が配置される。
→それまでの地理的・歴史的事情や羽柴領国の最東端にあたることから、沼津地域は中村家の統治期も一門や重臣が配置される領国の重要地域としてあった。
・中村氏次・河毛重次の活動
…城代として管轄地域内の寺社領の給与と権益保護(【史料9~13】)。【史料11】発給者の矢野種次は氏次の代官か。
・その一方で、長澤秀綱の活動が管見【史料14】。秀綱は村詮のもとで活動する代官か。
→沼津地域は三枚橋領と興国寺領のほかに、中村家の直轄領で構成されていたか。
それぞれの範囲は不明だが、沼津地域の東部が三枚橋領、西側が興国寺領で、北部が中村家直轄領か。今後も検討が必要だが、併せて関ヶ原戦い後の徳川権力下の沼津地域支配との関連があるのかもしれない。
・検地などの領国政策は他の地域と同様に実施されるが、その地理的・歴史的事情から領国内でも独自の地域運営が展開。
*中村家の領国検地
・・天正18年(1590)と慶長(けいちよう)4年(1599)に実施。このうち慶長4年の領国検地は政権奉公などに伴う疲弊状況に対する領国改革のなかで、宿老の横田村詮主導のもとで本格的に実施。村詮は検地の実施とともに、6~8月に領国内の各村に今後の支配方針としての法度を発給。
*慶長4年(1599)6~8月横田村詮法度【史料15】
…現在42点が確認。【史料15】は、中石田村(静岡県沼津市)の惣百姓中に出されたもの。沼津市内には、このほかに上石田村の惣百姓中に出されたものがある(「井口亘生氏所蔵文書」『沼津市史』史料編近世3p241)。
村詮法度の内容
…年貢と夫役(ぶやく)の規定(年貢・夫役の賦課率制定)、給人の恣意的な徴発禁止、米・大豆の交換比率、大名権力への直訴の保障など今後の支配関係を整備。米・大豆の交換比率を定めたところでは、駿東郡は沼津における相場(和子(わし))で実施を明示。
「米与大豆之わりハ、駿東郡之分ハ沼津にての売買之わしを以可相済候、其外之郡ハ府中之売買を以可相立候」(【史料15】とは別記載の村詮法度)
※沼津地域は、中村領国の中でも独自の地域として運営され、展開していた。
③豊臣政権内部の対立による情勢の展開と中村家
・「唐入り)長期化による国内の疲弊。そのなかで文禄(ぶんろく)2年(1593)8月3日の後継男子である拾(ひろい)(のちの羽柴秀頼)の誕生による太閤秀吉勢力と関白秀次勢力の対立、文禄4年(1595)7月に秀次事件(関白秀次が高野山へ出奔し自刃)が惹起【矢部2016】。
→事件鎮静の中で、秀次付東海諸将では、渡瀬繁詮が失脚し、有馬豊氏が代わって遠江横須賀領の譜代大名となる。中村一氏は駿河一国(15万石)の加増領有。
・政権は続けて天下人秀吉の病気と後継秀頼の幼少という政治危機を抱える。
・この事態に、それまで政権を支える立場にあった徳川家康ら有力外様大名が政権中枢の運営に参加へ。秀頼の成人まで秀吉の側近集団との協働で政治運営にあたることになる。これが、いわゆる「五大老」・「五奉行」の設置、豊臣政権の体制保持に努める。
・慶長3年(1598)8月の秀吉死後、五大老の一人でなおかつ羽柴家親類にあった家康は豊臣政権の主導者として活動。それに対する反発が政争を引き起こしていく。
・この事態に家康は従わない勢力に征討の対応を示す。
→慶長5年(1600)7月、不服従を示した陸奥国会津(福島県会津若松市)の上杉景勝(かげかつ)の征討(会津征討)が実施へ。中村家ら車海諸将の豊臣譜代大名も従軍。
・但し一氏は重病にあり、弟の氏次を「名代(みょうだい)」(代行)に軍勢を派遣。7月25日に一氏は死去(『藩翰譜』)。7月27日、.家康から中村家の領国運営と軍事対応は氏次と横田村詮に任される(【史料16】)。
・陸奥国会津へ向かう進軍の途次に、毛利輝元や石田三成らの反徳川勢力(いわゆる西軍)が蜂起し、豊臣政権の中枢を押さえれてしまう。この結果、家康と徳川方諸勢(いわゆる東軍)は、秀頼・豊臣政権に敵対する存在となった。
・反勢力を討つべく徳川方諸勢の西上→慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いに至る。
・関ヶ原の戦いでの家康の勝利。しかしながら、この段階の家康は名目的には秀頼「名代」(代行)としての豊臣政権内の天下人でしかなかった。
・徳川家はその戦後処理を経て、機能を果たさなくなった豊臣政権から自立し、羽柴家に替わる天下人としての立場を固めていく。
→慶長8年(1603)2月、家康の征夷大将軍任官=天下人公認、江戸開幕へ。
・中村家は駿河国から伯耆(ほうき)国米子(鳥取県米子市)17万5000石の加増移封。一方、沼津地域は、徳川関東領国地の西境という地理的位置のもとで新たな展開をみせる(2017・2018年度歴民講座の内容)。
おわりに一豊臣政権下の沼津地域とその後_
・戦国期の沼津地域
・・関東への「東境目」という地域事情のもとに、独自の歴史的展開を歩む。
・豊臣政権期の沼津地域
…上記の地域的・歴史的条件を前提に、豊臣政権の関東・奥羽地方への事態に備えた要地へと展開。
・天正18年(1590)7月の徳川家康の関東移封、織田信雄の改易
…羽柴領国の最前線という状況も加味され、譜代大名の中村一氏の駿河国配置。
・中村領国下の沼津地域
…一族・重臣の城代が配置され、領国内でも独自の地域として運営。
・関ヶ原の戦い後の中村家
…駿河国から伯耆国へ移封。若年の忠一を叔父の中村一栄(氏次)と宿老の横田村詮が後見。一栄は慶長9年(1604)3月に死去。一方、忠一と村詮との間で対立が発生し、慶長8年(1603)11月14日の饗宴中に、忠一は村詮を殺害(享年50)。村詮の後継・主馬助は忠一に蜂起。忠一は出雲国松江(島根県松江市)の堀尾家の援護を得て鎮圧。だが忠一も慶長14年(1609)5月11日に頓死、享年20。無嗣断絶(『中村一氏記』ほか)。
・関ヶ原合戦後の徳川家の天下人化(徳川権力としての展開)と領国の拡大
→以後、沼津地域に、徳川関東領国地の西境という地理的位置を新たに付与する。
・その後、徳川頼宣・忠長の駿府藩期に駿河国のなかでの一地域として編成されるが、寛永9年(1632)10月、忠長期駿府藩の改易を経て、沼津地域=駿東郡は再び関東領国地の西境という地域事情を示し、それに伴い幕府領・旗本知行地・小田原藩の領地となるという、近世初期の支配展開をたどる(2017・2018年度歴民講座の内容)。
※豊臣期の沼津地域は、戦国時代の地域的・歴史的展開のうえに、豊臣政権の関東・奥羽地方の事態に備えた羽柴領国の最前線に位置、独自の地域運営を実施。
主要参考文献
池享「戦国・織豊期の沼津」(同『戦国期の地域社会と権力』、吉川弘文館、2010年)
黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(KADOKAWA〈角川選書〉、2016年)
『近世初期大名の身分秩序と文書』、戎光祥出版、2016年)
柴裕之『徳川家康境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)
「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』、2019年)
平山優「豊臣政権下の大名と甲斐」(『山梨県史のしおり通史編3近世1』、2006年)
藤田恒春『豊臣秀次の研究』(文献出版、2003年)
堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)
本多隆成『近世初期社会の基礎構造東海地域における検証』(吉川弘文館、1989年)
矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年)
『関白秀次の切腹』(KADOKAWA、2016年)
『静岡県史』通史編3近世1(静岡県、1996年)
『新修米子市史』第2巻通史編近世(米子市、2004年)
『沼津市史』通史編原始・古代・中世(沼津市、2005年)、『同』通史編近世(沼津市、2006年)
『山梨県史』通史編3近世1(山梨県、2006年)
『愛知県史』通史編3中世2・織豊(愛知県、2018年)
画像
羽柴秀吉の画像…名古屋市秀吉清正記念館『館蔵品目録』から転載。
羽柴秀次、中村一氏、横田村詮…東京大学史料編纂所肖像画模本データベースから転載。
中村一氏の花押…『駿河志料』から転載。

(令和2年1月11日歴民講座「豊臣大名中村一氏の駿河支配と沼津地域」柴裕之当日配布資料5・6・7・8頁)

下記沼津朝日新聞【沼朝2020(令和2)119(日曜日)】↓

豊臣大名中村一氏の駿河支配
 沼津地域との関わり歴民講座で

 市歴史民俗資料館による郷土史講座「歴民講座」が11日、市立図書館の視聴覚ホールで開かれた。歴史学者の柴裕之さんが「豊臣大名中村一氏の駿河支配と沼津地域」と題して、江戸時代直前の沼津の位置付けについて解説した。
 江戸時代直前の位置付け
 歴史学者の柴裕之さんが解説
 主役の経歴中村一氏は、尾張国(現在の愛知県西部)出身とされる戦国武将で、豊臣秀吉の部下として活躍し、出世を遂げた。記録が残っている最初の活躍は、本能寺の変の直後に秀吉が明智光秀を破った1582年の山崎の合戦だという。その後、和泉国岸和田(大阪府岸和田市)の城主となり、近江国甲賀(滋賀県甲賀市)を経て、同国水口岡山()の城主となる。この頃、秀吉の甥秀次の部下となった。
 1590年に秀吉が小田原の北条家を攻めると、一氏は秀次軍に所属して山中城(三島市)の戦いで活躍。その後、駿河一国を与えられ、駿府城主となった。
 家康の関東移封一氏が駿河の大名となったのは、それまで駿河を含む東海5力国を支配していた徳川家康が関東に領地替えとなったことに端を発する。関東一円を支配していた小田原の北条家が滅亡すると、秀吉は関東の元北条領を家康に与え、それまで家康が拠点としていた東海地方には秀次とその部下が入った。
 この家康の関東移封は、従来は家康を恐れた秀吉による左遷政策と見なされていたが、近年の研究では、異なる見方が示されているという。
 秀吉は、天下統一の障害となる東日本の諸大名との外交では家康の協力を必要としており、家康を通して外交を行っていた。一方の家康は、政略結婚によって秀吉の親族となることを選び、豊臣政権内での地位を上昇させていた。両者が敵対していたというのは、後世に作られたイメージに過ぎないと柴さんは指摘する。
 両者は緊密な協力関係にあったため、家康の関東移封は、秀吉が東日本を家康に任せるために実施されたと考えられるという。従来の左遷説では、家康の新本拠地となった江戸が田舎であることが強調されるが、実際の江戸は関東の経済の中心地として早くから発展していた土地で、北条家も江戸を新拠点とする構想を抱いていた。
 沼津の持つ意味 西から見て関東への入り口に当たる沼津の地は、軍事や経済の重要拠点と見なされ、戦国時代には武田、北条、今川の有力大名による争奪の対象となった。
 この3者の争いで最終的に沼津の地を確保した武田勝頼は、三枚橋城を築いて北条軍への備えとした。武田家滅亡後に沼津を手に入れた家康は、国境防備の専門家である松井忠次を三枚橋城の城代に任じ、関東の北条への備えとした。
 武田と徳川にとって沼津の地は東の国境地帯であった。
 中村一氏が沼津を含む駿河一国の大名となってからも、この状況は続く。一氏の上司の秀次は、家康と共に東日本の諸大名に備える立場にあり、秀吉や秀次から見ると、沼津は豊臣勢力圏にとって東日本との国境地帯であった。
 一氏の沼津支配 中村一氏は、豊臣政権の要人である秀次の側近として京都に滞在していた。
 このため、領地の管理や運営は重臣の横田村詮(よこた・むらあきら)に任せられた。横田は四国の戦国大名三好家の家臣だった武将で、一氏に才能を見い出されて家臣となったという経歴を持つ。その一方で、沼津の地では、興国寺城に河毛重次(かわげ・しげつぐ)という重臣が配置され、三枚橋城には一氏の弟である中村氏次(一栄)が派遣された。このほか長沢秀綱という代官の存在が史料から明らかになっている。
 横田は駿河国内の村々に法度(はっと)と呼ばれる規則集を出した。法度には、沼津を含む駿東郡に対しては特例が示されている。この特例は米と大豆の相場に関するもので、他地域では駿府の相場で取引することを求めているが、駿東郡は独自の相場で取引することを定めている。これは沼津が国境地域として独特の立場にあったことを示しているという。
 その後の秀吉・家康二氏 秀次と家康が協力して秀吉を支えるという体制は、秀吉に実子の秀頼が生まれたことで破綻した。それまで秀次は秀吉の後継者と見なされていたが、秀頼の誕生によって秀次と秀吉の間に対立が生じ、秀次は自害に追い込まれる。
 そして、秀頼が成長する前に秀吉が病没すると、豊臣政権は政権運営者が不在となってしまった。
 この権力の空白を埋めるため、有力大名による集団指導体制が作られ、秀吉の親族である家康がリーダーとなった。しかし、石田三成などはこの動きに反発し、新たな対立が起きた。関ヶ原の合戦で集団指導体制内の有力大名が軒並み没落すると、豊臣政権は維持できなくなり、家康は独自の新政権を樹立するに至る。
 この間の一氏は、秀吉と秀次の対立では秀次派から秀吉派に鞍替κした可能性があるという。この後、一氏が加増されて領地が増えているのが証拠となっている。
 秀吉没後の混乱が起きると、一氏は病床にあったため、弟の一栄を家康の元に派遣。一氏は関ヶ原の合戦の直前に死去した。関ヶ原後、中村家の領地は伯耆国(鳥取県西部)に一移った。
 伯耆の中村藩では、一氏の息子の忠一と横田村詮が対立して横田が殺害され、間もなく忠一も20歳の若さで子のないまま突然死し、中村家は改易された。
 終わりに 柴さんは講演のまとめとして、戦国時代から江戸時代初期に至る沼津の立場について振り返った後、「時代の流れを見てみると、私達は結論を知っているので後ろから見てしまうが、一つ一つの時代の流れを前から見ていくと、また違った歴史像が浮かんでくるのではないか。きょうの話を通して、皆さんが、これまでと違ったことを得られる機会になれば嬉しいです」と話した。この歴民講座には142人が参加した。
【沼朝2020(令和2)119(日曜日)

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