田邉太一に学ぶ 土屋詔二
昨年は様々に公のあり方が問われた年だった。政治家の公務私物化、隠蔽・廃棄された公文書、付度優先の公僕、税における公平、公益事業と贈収賄、環境汚染や気候変動・・・・。
対照的だったのは中村哲医師であろう。旧ソ連による侵攻やアメリカの空爆で荒れ果てたアフガニスタンで「人々の健康を守るためには清潔な水と食糧が必要であり、灌漑事業が欠かせない」と、自ら導永路を掘って沃野に変えた。利他の精神こそ公の原点である。襲撃され亡くなったのは痛恨極まりない。
灌漑などの土木事業は、公益に資することが本領であろう。芦ノ湖の水を流域変更して静岡県側に引いた深良用水は、われわれに馴染み深い。同様に琵琶湖の水を京都に引いたのが琵琶湖疎水である。明治維新後、大規模土木工事は「お雇い外国人」の指導によるものが多かったが、琵琶湖疎水は田邉朔郎の卒業論文を具現化した稀有の例である。
昨年一一月一六日に沼津史談会ふるさと講座で、田邉康雄氏の『ある幕臣の挑戦』を聞いた。ある幕臣とは朔郎の叔父の田邉太一のことである。樋口一葉に小説家への道を決意させた三宅花圃(龍子)の父親でもあるが、朔郎に比べると一般の知名度は低いだろう。
昨年出版された木内昇『万波を翔る』は、太一が主人公の歴史小説だ。幕末から明治にかけての激動の時代、ぶれない心棒(軸)を持って活動した太一の成長譚を、女流作家が洒脱な筆致で描いている。開国が国民生活に与える影響についての論議は、TPPや為替政策といった現在のテーマにも重なる。
太一は幕府直営の昌平坂学間所で優秀な成績を収め、勝麟太郎や赤松則良らと共に長崎海軍伝習所の三期生に選ばれた。幕府は開国に伴う難題に対処するため、安政五年に外国奉行を設けた。下僚になった太一は上司と衝突しながら公儀として尽力したが、幕閣主導の外交は失敗続きで十年後に幕府は倒れた。
転換期にあって必要なのは、幕藩体制下での公ではなく、それを超えた日本という枠組での公だった。太一は明治二年に徳川家創設の沼津兵学校教授に招聘され、国史や公用文の作成などを教えた。兵学校は兵部省の管轄になり、太一も勝に乞われて外務省に出仕した。『幕末外交談』という回顧録がある。
講師の康雄氏は朔郎の孫、太一の曽姪孫。京都大学の福井謙一研究室の出身で、ノーペル賞を受賞した吉野彰氏の先輩にあたる。八〇歳を超えた今も、現役の技術コンサルタントである。五街道の一つの甲州街道が、江戸城から親藩の甲州藩への脱出路だったなどの話も交え、楽しく拝聴させて頂いた。
現在は第三の開国と言われる。利己に走るリーダーが多いが、利他を優先する「公」の精神の人材が求められる。先駆けとしての田邉太一に学ぶことは多いのではないか。
(高島本町)
【沼朝令和2年1月10日(金)言いたいほうだい】
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