2020年1月26日日曜日

第33回沼津あれこれ塾山田源治郎 講師大庭晃先生 録音動画





↓当日配布資料


↓当日配布資料抜粋


義民 山田源次郎について
 2020年1月
 1.江戸時代の西熊堂村
 *安永6年(1777)の「村明細帳」によると(領主は旗本久世より沼津藩水野に)
 ア.村高498石余…田高410石余(面積39町余)、畑高81石余(面積17町余)、屋敷6石余(面積6反余)、戸数57軒(本百姓53軒・水呑3軒・庵1軒)、人数224人(男117人、女107人)、馬5疋。
 イ.用水…当村用水は松沢水を利用、用水井組は東熊堂村、三枚橋町、上ヶ土町、当村の4ヶ村用水。天水場は堀合に9反5畝余ある。その他に門池掛り1町余。
 ウ.畑作物…大麦・小麦。夏は粟、稗、大豆、小豆、菜、大根、綿等。
 エ.農業の合間…肥やし支度、農間や雨天は男は莚縄作り、女は綿仕事。
 オ.百姓夫食…雑穀ばかり。
 カ.御年貢付加税…本石3斗5升に出目5升入れ4斗俵にて納める。
 キ.御口米…3斗5升入れ1俵に1升ずつ納める。
 2.石碑よりみた山田源次郎(慰英魂 山田源次郎之碑)
 ①石碑より
 文化年間(1804~1818)、飢饉がしきりに起こるが領主(水野氏)の収奪重く、郷民は生活に困窮。苛法の改正願うが、領主は聞かなかった。

→郷民は、三分の一・五升高廃止の紛擾を起こす。代表として源次郎は・領主に減租を要求。
→郷民は蜂起して、領主城下に逼り強訴しようとする。

→源次郎は、軽挙事を誤る、と強訴を止める。

→領主は大いに怒り、首謀者を探し出す。

→源次郎は自ら首謀者として名乗り出る。郷民は一揆の罪を免れる。領主は減租する。

→源次郎は24年間入牢、出獄してまもなく、天保11年(1840)1月20日、73歳で病没。永信寺に葬る。戒名は「寂静院宗閑日迢信士」。

→明治45年(1912)、郷民は翁の業績を永久に遺そうと、旧邸に石碑をたてた。



 ②文献よりみた功績
 ア.『駿東郡誌』(大正5年1916)
源次は文政、天保年間の人。長く名主を勤め、領主の年貢の過酷を憂い、減税を願うが聴かれず、同僚江藤茂七、川村半左衛門と謀り、領民数百人を率いて訴願した。領主は3人を留置し、農民を解散させた。2人は放免されたが、源次郎は数年拘禁。藩主は税法を改正し、領民の希望はかなった。明治45年村の有志者は碑を源次の旧邸地に建設しその功を表した。
 イ.『金岡村誌』(大正13年1924)
西熊堂山田家に生まれる。世々名主たり。文政・天保の頃、課税過酷で農民の苦一方ならず。これを憂いて減税を強訴す。為に入獄、数年の罪を蒙るが減税される。有志相謀りて翁が霊を慰めんと明治45年に碑を旧邸地に建設す。
 ウ.『沼津市誌』下巻(昭和33年1958)
文化年間、農作物の不作に加え、領主水野家の課税取立厳しくく村人の窮乏を救うため領主に願い出たが聴かれず、村人は強訴しようとした。これを「三分一・五升高騒擾」という。源次郎は首謀者と目されて投獄され、獄中で病気となり、家に帰されてまもなく没した。
 ③源次郎の名前について
 ・石碑の表には「山田源次郎之碑」と書かれているが、石碑の裏には「翁名源治郎姓山田氏…」となっている。
・永信寺の過去帳は「天保11年正月寂静院宗閑日迢 山田源次郎」と記載。
・「西熊堂村区有文書」の文化9年(1812)の「組合村方取極定書」には「名主源治郎」と記載。
・『駿東郡誌』や『金岡村誌』は「山田源次」・『沼津市誌』は「山田源次郎」
・「金岡村役場文書」の「煙火打上願」(明治45年)として、「故山田源次郎翁建碑式挙行に付16日に西熊堂字開戸畑中で花火を揚げるのを許可して欲しい」
 ④「三分一・五升高」とはどういう意味か
 *天保2年(1831)、沼津藩領だった五泉役所(現新潟県五泉市)は領内村々に対し年貢・諸役の方針をだした。(五泉は文政13年(1830)に沼津藩)その中に・年貢米本途は天保2年より陣屋元払米値段に五升高をもって三分一を金納とする。ただし、米納のできない村には皆金納を認める。などの記載がある。沼津でも三分一金納が行われていたので、年貢米の三分一をお金に換えて納めるときに一両に五升余分に納めさせたものと思われる。

 ⑤源次郎が果たした役割…二つの見解
 ・石碑…郷民の軽はずみな行動を戒め、自ら首謀者として名乗り出た。
 ・文献…名主として江藤茂七、川村半左衛門と謀り郷民数百人を率い強訴した。
 ※いずれにしても郷民から犠牲者を出さず、自分一身の責任とした。
 ⑥一揆が起こった時期はいつか。
 ・『駿東郡誌』は文政・天保の頃、『日本歴史大辞典』は天保8年、石碑は文化年間と様々な記録があるが、文化13年(1816)年と考えられる。
 ※文化13年の根拠は
 ・西熊堂村は村高498石余の村で、その内、田は410石余あった。文化13年には風損で177石余の田が収穫が皆無となり、課税される田高は231石7斗余だった。この年の「年貢割付帳」をみると田に対して108石4合を納めるように書かれている。実に4割6分余という高率の年貢が課されている。その上に11パーセントほどの斗立(はかりだて)と3パーセントの口米が課せられたので、6割もの年貢がかかったことになる。
 ・文化9年(1812)の「村方取極定書」(西熊堂区有文書E5)に西熊堂村名主に源治郎の名がある事。
 .・文化9年の「乍恐書ヲ以テ願上候」(岡宮持田家文書A8)に岡宮名主茂七の名がある事。
 ・明治45年(1912)の石碑も文化13年を根拠にしている事。
翁獄中にあること24年、病で家に帰され、じきに亡くなった。実に天保11年(1840)正月20日なり、と記載されている。
 ⑦年貢は下がったのだろうか。
 ・三分一・五升高がなくなったのかは文書からば判明しない。
 ・定免法のときは田方の税率は37.8パーセントほどだった。
 ・田方の税率は一揆が起こったとされる文化13年(1816)は46.6パーセントと極めて高かった。その後飢饉等で税率は年により上下変動が大きい,が、天保11年(1840)よりは定免法となり、税率も27.7パーセントと、以前の定免法よりも10パーセント下がっている。
 4.その他
 *源次郎の孫山田源太郎は嘉永4年(1851)より西熊堂村の名主になり、明治7年(1874)に第一大区六小区副戸長となる。
 *沼津藩主のこと
 ・初代藩主水野忠友…安永6年(1777)…三河大浜から沼津に移封。2万石の大名に。翌安永7年1月韮山代官江川より城地受取。後3万石に。
 ・2代藩主水野忠成…享和2年(1802)家督相続。将軍家斉のもと、奏者番、寺社奉行、若年寄をつとめ、文化9年(1812)西丸御用人、文化14年(1817)老中格に、文化15年(1818)勝手掛、文政元年(1818)老中になる。文政4年と文政12年(1829)に各1万石加増され、5万石の大名となる。
 *年貢は下がってきたか
 ・天保11年(1840)4月に村役人は定免願の次のような文を役所に提出。
 乍恐以書付奉願上候
 私共村方退転仕程の極難渋仕、十五年以前より検見願ったが、刈旬に手が廻らず、諸帳面仕立方も手廻り兼ね、諸費相掛り難儀、是非定免願う。
 ・グラフをみると天保11年より願い通りに定免になつており、田の年貢率も27.8パーセント程と以前より大分下がっている。
 5.用語の解説
 ・石盛…田畑や屋敷の反当り収量。検地で田畑を上・中・下・下々などの等級に分け、収穫量を算出した。たとえば、西熊堂村の上田の石盛が13というと、一反につき米が1石3斗収獲できるということ。
 ・斗立(はかりたて)…年貢米を計るとき、1俵あたり3升などの余米を加えること。延米・出目米と同義。
 ・口米…田畑の本年貢にたいする付加税。1石に3升の例が多い。お金の場合は口永。
 ・込米…欠米とも。年貢米輸送や保管の際に生ずる欠損分を補うため余分に入れた米。
 ・定免…過去数年間の平均年貢率や年貢高に基づき豊凶に関わらず定率または定額で貢を納める方法。
 ・検見取…その年の収穫量から年貢高を決定する方法。
 ・山手役…領主の御林に立ち入り、落葉や薪を採取する代償として賦課された小物成。
 ・見取…新開地や収獲不安定な土地に対し、反別を計測して年貢を賦課すること。
 〈補足〉
 百姓一揆の形態には、大別すると
 ①越訴…手続きをとらずに上級機関に訴願する事。
 ②強訴…集団の圧力で要求を強いる。
 ③逃散…訴願を貫徹するため居村を立ち退き、集団的に移動する(隣領等へ)。
 ④打ちこわし…集団で家々に乱入し、家財や書類等を破壊する。
 6.金岡・大岡地区の村の変遷
 ・大岡地区…上小林・下小林・上石田・中石田・下石田・木瀬川・日吉・高田の8ケ村。
 明治6年に上小林村は北小林村に、下小林村は南小林村になる。
 明治7年(1874)に8ヶ村は合併して大岡村の成立。
 ・金岡地区…岡一色・岡宮・東熊堂・西熊堂・東沢田・中沢由・西沢田・沢田新田の8ケ村。
 明治22年(1889)に合併して金岡村の成立。
 ・両村は昭和19年(1944)に沼津市と合併し、沼津市金岡、沼津市大岡となる。


『山田源次郎石碑解読 (発起人は金岡村長植松久二・大岡村長井口熊次郎)
 慰英魂 翁、名は源治郎、姓は山田氏、駿河国駿東郡西熊堂村の人にして、当主順作氏の曽祖父也。幼にして聡慧、最も仁義に篤く、長じて里正に挙げられ、郷民信頼す。文化年間、飢饉頻りに起こるが領主の年貢の取り立てやまず、郷民衣食給せず、飢え凍える日多く、因って苛法の改正を請う事再三、而して聴かれず。役人と里民の間に紛争連年、当時之を「三分一、五升高廃止の紛擾」と称し、今尚口伝えになっている。此の時に当たり、翁推されて郷民の代表となり、村内では頻りに窮民救済の策を講じ、出てはしばしば領主に訴え、減租を請う。日夜奔走、家を棄て食を忘る。家の仕事は傾廃し、妻子は飢渇す。しかし顧みる暇あらざる也。一日翁外に在り、たちまち伝者有、郷民蜂起、将に領主の城下に迫り、強訴する所有らんとす。翁驚愕、走り帰れば則ち既に民衆城に近づく。翁身を挺して道を遮り、諭すに軽挙は事を誤るの理を以てし、嘆いて涙を流す。郷民固より篤く翁を信ず、よって以て事無きを得たり。然るに領主変を聞き大いに怒り急ぎ首謀を求む。翁謂う、事既に是に至る、身を以て衆の代わりに如かずと、乃ち独り城中に至り、自ら首謀と称し、罪を請い獄に投ず。郷民皆免を得たり。翁在獄二十四年、其志益々堅し。領主始めて税を減じ又免ず。翁獄を出ず。翁たまた病有り、家に帰り未だ幾ばくならずして残す。実に天保十一年(一八四〇)正月廿日也。享年七十有三、永信寺の墓域に葬る。戒名は寂静院宗閑日迢信士という。鳴呼翁の如きは深学の者と謂うべきではない。而して義を重んじ難に赴き、身を殺して仁を為す、古のいわゆる仁人義士也。翁歿後未だ其事の表章有らざるは洵(誠)に郷民の遺誤也。今茲に郷民相議して碑を翁の遺跡に建て、以って其の状の不朽を伝えんと欲し、銘を請う、乃ち銘に曰く富山の麓 駿海の浜 秀麗積気 時生偉人 行仁救衆重義忘身 牢につながれるは罪にあらず 無実の罪自ら伸ぶ 山は欠けざるに非ず 海非不烟 英魂不朽 長く石に刻んで残す
 明治四十五年三月八日 東京 三木貞一 駿河 本多藤江』(当日配布資料より)


 山田源次郎めぐる当時の状況
 あれこれ塾 大庭晃さんが解説
 NPO法人海風4725日、郷土史講座「沼津あれこれ塾」を市立図書館で開催。元中学校教諭で市史編纂事業にも携わった大庭晃さんが「山田源次郎をめぐって」と題して話した。

 山田源次郎(17681840)は、今から約200年前に沼津藩で起きた年貢減免運動で奮闘したとされる人物。西熊堂村の名主で、現在の金岡地区西熊堂に顕彰碑が建っている。
 この碑によると、相次ぐ不作で生活が困窮した村人が、藩の増税政策である「三分一・五升高」制度(*)の廃止を求めて一揆を起こそうとした際、源次郎は村人を説得して一揆を中止させた。藩が一揆騒ぎの捜査を始めると、源次郎は村人の身代わりとなって自首した。源次郎は罪人として投獄されたが、年貢は減免されたという、源次郎は24年後に釈放され、まもなく病死した。
 西熊堂では源次郎への感謝の念で、明治45(1912)に源次郎宅跡に同碑が建立された。建立の発起人として、当時の金岡村長と大岡村長が名を連ねている。
 この一方で、大正期に編纂された地方誌では、一揆は未遂ではなく実際に決行され、源次郎が一揆のリーダーとなったと記されている。
 大庭さんは、当時の様々な資料に基づきながら、源次郎の事績の実縁に迫った。
 それによると、約200年前の西熊堂村に源次郎と見られる名主がいたことを示す史料は存在するが、源次郎が関与した年貢減免運動を記録した史料は未発見であるため、一揆の実像については様々な史料を組み合わせて推測することになるという。
 その1つとして、年貢減免運動が起きた年の確定がある。年についての明確な記録はないが、大庭さんは西熊堂村の年貢納入記録に基づいて当時の年貢率や不作の状況を分析した上で、これは文化13(1816)の出来事だったと推測する。なお、源次郎の没年から入獄期間の24年を引くと1816年となるので、一致する。
 ただ、文化13年以降の年貢率の記録を調べても、年貢率が下げられた形跡は見られないという。年貢率が明らかに低下したのは天保11(1840)で、これは村人の要望によって年貢徴収方法が変更されたことによるものだった。
 年貢減免運動の規模について大庭さんは、西熊堂村は現在の金岡地区や門池地区、大岡地区にあった村々と組合を作っていたことから、こうした村々と連携して運動が行われた可能性を挙げ、源次郎顕彰碑の発起人に大岡村長が加わっているのは、そうした一面があったからであると指摘した。
 (*)年貢の3分の1を米ではなく現金で納付させ、その際に金1両につき米5升分の価格に相当する金額を上乗せする制度。
【沼朝令和2年1月30日(木)号】

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