2020年1月2日木曜日

昭和黄金時代の沼津商店街思い出動画:本町通り(仙石規氏沼朝元旦号記念)





「昭和黄金時代の沼津商店街」思い出散歩
第七回「本町通り」仙石 規


 一 本町通りは、商店街だったのか、夏のクリスマスとは?
 クリスマスも終わり、師走も終わりを迎えるころ、かつては、冷たい西風が連日のように、沼津に吹き荒れたものでした。大晦日前から、本町通り交差点北西角には、「年の市」が立ちました。正月に欠かせない、締め飾りや鏡餅を載せる台に敷くシダ、新年の暦などを売る屋台も、いまや沼津の街角地からは消え去りそうです。祖父に手を引かれ、門松を飾った市場町自宅の玄関から出て、御成橋の上を風に飛ばされそうになりながら渡り、通横町を過ぎると、大勢の客が品定めをしている屋台が見えて来ました。
 明治・大正時代に繁盛を極めた「本町通り」は、まさしく旧東海道のメイン・ストリートでした。以前、上土通りを「沼津最古の商店街」と書いたところ、「最古は、本町だろ」と、指摘されました。だが僕は、本町通りは「繁華街」でありましたが、「商店街」ではなかったと思っています。
 明治・大正時代、沼津の港は、御成橋と永代橋の間の狩野川右岸に在ったのです。船着場からの荷や、漁船から荷揚げされた海産物などは、河岸から」「魚町」「仲町」の通りに運ばれ、倉庫に保存され、出荷されました。
 その通りから一本西側の本酊通りは、運送業者、漁師、仲買人などが、仕事を終えて集う遊興地だったのです。戦前最大の娯楽施設だった映画館、カフェー(現在のカフェではなく、女給さんがいた風俗店)、遊郭、旅館などが建ち並ぶ通りでした。もちろん商店も多かったのですが、商店街としては、明治・大正時代には上土が主で大正末期の沼津大火の後は、新興地となった本通り(その後のアーケード街)が栄えたのです。
 本町通りの北西角には、明治元年創業(創業時は氷店)の精肉店「古安」がずっと頑張っています。現在の建物は、昭和三十年後期に建てられたもので、肉店のほかに、中華食堂や屋上ビアガーデンまで営業していたことが、本紙掲載の写真から判ります。写真に写された軽トラックは、いまや滅多にお目に掛れない「宣伝力ー」です。拡声器で商店の宣伝や音楽を流してよく走っていたものです。車に「クリスマス」との表示が見えますが、冬に撮られたものではありません。市内のキャバレーが「サマー・クリスマス」を宣伝していたのです。昭和三十年代の日本では「クリスマス」は何と「ハメを外す遊び」との意味もあったのですね。古安二階の食堂で、家族とカレーライスやビフテキなどの洋食をハレの日に頂いたことも夢のようになってしまいました。縁に食紅が付いた焼豚も、この店ならではの逸品です。
 古安南隣は、「わたぎん寝貝店(閉店と、沼津商店街研究の大先輩だった故・川口和子女史の「川口歯科」(本町は休診中)、「菊水旅館」(今は駐車場)と並んでいました。
 二 鶏肉の老舗と金魚屋さん
 小路を南に渡ると、マンション・コーポ寿山の場所には、「ヤマト屋」「みゆき寿司」がありました。その南には、明治・大正時代には「桔梗屋旅館」という大きな旅館があり、「加藤学園」の前身「淑徳女学院」を創設した加藤ふぢ女史の出身地です。本町マンションが建った後、一階には貸しビデオ屋さんが入っていました。ビデオ屋が閉まった後に、「タベルナ・マンマ」というクラシックなイタリア料理店が開店し、父母はひいきにしていました。母がここでスパゲッティを食べ過ぎそうになると、父が「食べるな、お腹が出るよ。ママ」と制止したとか。タベルナとは、イタリア語で旅籠屋などにある軽食堂のことです。
 続いて、正秀刃物店の「マサヤ刀剣店」「東京生命」(今は、岡田金魚店別館)がありました。南に進むと、懐かしい「岡田金魚店」が待っています(昭和十三年創業)。僕の生家は、市場町の法律事務所が建っている場所にありました。広い庭と池があり、祖父に連れられて、岡田さんに金魚を買いに行ったものでした。夏が訪れると吊り忍や風鈴が店先に揺れ、涼しさを感じさせてくれました。昭和三十年代に、岡田さんは飲食店もやっていたそうです。金魚屋さん南には、熱帯魚の「エンゼル」があり、大きな魚拓が眼を惹いた「沼津釣具センター」と、魚関係の店が続きました。
 その南に開く大正時代創業の「鳥佐」は、沼津一美味しい鶏肉を扱う店という評判です。焼き鳥を作る時や、クリスマスのローストチキンを焼く時も、我が家ではずっとお世話になっていました。鳥佐さんは、昭和四十年代には岡田さん隣にあったのですが、移築したそうです。角地の駐車場は、かつて松澤商店(その前は金指商会)とサトウ・スポーツ店でした。
 三 ベルタクさんと大人の映画館、ミス・パイロットとは?
 次の西に入る小路は、「丸子・浅間神社」裏口に続く情緒ある道筋です。ここを過ぎると、上本町は、下本町に移ります。小路の北にあった、とんかつ屋「美登里」は、祖父が写真同好会の集いなどでよく通った店でした。数年前に廃業し、その後しばらく店先の椅子に店主がボーっと腰かけていた姿に時代の変化を感じました。
 本町通り北西角には、「松田法律事務所」という有名な弁護士事務所があり、魚屋さんの魚松(十六年前に廃業)、明治時代から、今も元気に営みを続ける鈴木理髪店と、並んでいました。鈴木さん隣の「岩垂」は、スマー卜・ボールの店でした。この遊びを覚えている読者はおられますかね。次の角地にあった望月酒店は、平成四年から「セブンイレブン本町店」となり、いつも賑わっています。
 南に渡り、下本町西南ブロックに来ると、老舗のタクシー営業所が待っています。「ベル・タクシー」が開業したのは、昭和二十四年四月だそうです。子供の頃から、我が家は「ベルタクさんを贔屓(ひいき)にし}きました。可愛い金色のベルのロゴは、今でも色褪(あ)せないお洒落な傑作だと思います。
 ベル・タクシー南は、戦前から「中野内科・小児科医院」が開業していましたが、その後、歯科医院になっています。「ヤマフジ・コーポ」を過ぎると、駐車場がありますが、かつては「加藤楽器店」と「美松寿し」という老舗の寿司屋さんがありました。九年前に、この店の稲荷寿司を、幻に終わった僕の小説「沼津御成橋稲荷大事件」に使わせてもらおうと、訪れたところ、一週間前までにはあった店が、取り壊されて平地になっていたのには、まさに「狐に化かされた」気がしました。
 次の場所は老舗化粧品店「むさしや」ですが昭和三十年代には「銀星座」という映画館があり、その後、「東海劇場」と名を変えました。東海劇場は、成人映画専門の映画館で、この前を通る際はドキドキしました。DVDは勿論、ビデオさえ無かった時代です。性愛は、タブー視され、中学生の自分は、映画館前で、それはいやらしく感じた映画タイトルと露出度も少ないポスターの写真を脳裏に焼き付け、帰宅して妄想に耽ったものでした。現代は容易(たやす)く、アダルト映像の世界が見られる時代になりました。「想像力の欠如」という問題も出て来ているのでしょうね、今や成人映画館も絶滅状態のようです。
 かつては、「中村演芸館」という芝居小屋であった東海劇場が閉館した際、南にあった「むさし屋」が劇場跡地に移転したそうです。むさし屋さんの奥さんは、昭和三十年に「ミス・パイロット(文具社)」として、沼津夏まつりで車上パレードした美人で、今もお店に行けば変わらぬ笑顔で迎えてくれます。(当時の写真は、小生が執筆・監修した「沼津今昔写真帖」でご覧ください)
 下本町の最後の南西角は、静岡銀行本町支店でしたが、十数年前に大きなマンションが浅間神社入り口近くまで建てられました。建物の影響で、この付近の住民は、ただでさえ強かった冬の風が、さらに激しくなったと嘆いています。下本町を抜けると、旧東海道は西に向きを変え、出口町方面に続きます。
 四 洋画の「国際劇場」に「丸源」は、夢の跡、そして「千楽」
 本町通りを東に渡ると、明治四十年創業の「花見煎餅」が角に待っています。前は「吾妻屋」という名でした。ザラメ砂糖がまぶされた煎餅や、香ばしいあられなどの種類の多さに、どれを選ぶか迷ってしまう子供時代でした。
 北には、「小笹紙店」「会津漆器店」「丸源そば店」と続いていました。丸源の天婦羅蕎麦はとても美味しく、汁が滲んだ天婦羅の味は忘れられません。カツ丼や五目ラーメンも旨かったのに、ある事件がきっかけで昭和五十年代に閉店してしまいました。支店が高島町にあり、ここも贔屓にしていましたが、十三年前に廃業して残念です。
 蕎麦屋北には、「丸井百貨店」という小さな店がありましたが、今も人気のマルイ(かつて駅前通りにもありました)とは無関係です。露木商店を挟んだ北には、洋画専門の映画館「国際劇場」があり、洋画派の父と自分は、週末に通ったものです。「ファントマ」というフランス映画や、名優ジェームス・コバーン主演の「電撃フリント」のシリーズは、わくわく感で心を充たしてくれました。劇場跡の駐車場を観察すると、映画館の痕跡が見られます。ああ、我がシネマ・パラダイスよ。
 続く店は、骨董屋さん「田中温古堂」で、店の中で昼寝している猫を見一たくて、よく訪れた場所です。角地には、沼津で一番好きな洋食屋さん「千楽」が、今でも繁盛しています。こってりしたハヤシ・ライスやお持ち帰り出来る「カツサンド」も食べたいのですが、店に来るといつも、子供時代の誕生日に出前してもらった「ランチ」を注文してしまいます。ランチといっても昼限定ではありません。海老フライ、ハンバーグ、ハムと、みずみずしいサラダが盛られた皿を頂くと、至福の時を過ごせます。
 一階も五十年前にタイム・スリップ出来るレトロな空間ですが、二階の窓辺の席から、夕暮れの本町通りを眺め、「栄えある沼津」をしのぶのも好きです。千楽の創業は、昭和二十年代中期です。前のご主人は、千本にあった「東京亭」で修業したらしいです。
 五 「パチンコ屋」に銭湯もありましたね 千楽北の小路を渡ると、パチンコ「大都会」がありました。パチンコ屋さんといっても手動単発式の素朴な器械が数台並んだ小さな店でした。初代・仙石医院院長だった祖父は、大のパチンコ好きで、この店に通って、僕にチョコレートやビスケットなどの景品を持ってきてくれたものでした。パチンコ屋の後は、「本町将棋倶楽部」になっていましたが、現在、扉は閉ざされています。
 北にはずっと空き地が続きますが、昭和四十年中期には、「森田ゴルフ商店」「レストラン・ズパシーボ」「中野肉店」、東奥地には銭湯「朝日湯」がありました。沼津の銭湯は、数年前に廃業した「吉田温泉」とともに無くなってしまいました。中野肉店の中野勇雄さんは、沼津屈指のアマチュア・カメラマンで戦前の情緒溢れる本町の写真を遣されました。その北に、「大門食堂」「大竹洋品店」があり、角地は、七十年の歴史を誇る「小林花店」です。
 六 「お菓子の家」、一世紀以上続く薬局と「カムイン」の謎
 続く角地には、「沼津本町郵便局」が建っています。その北には、「沼津テレビ・サービス」「沼津交通本町営業所」がありましたが、今は、菓子材料や製菓用具を扱う店「ミズタ」になっています。「水田商店」の名だった頃、母に連れられて店に入ると、「わあ!ヘンゼルとグレーテルの世界だ!」と叫びたくなりました。元ミス名古屋だった母は、私の子供時代には、菓子や料理を手作りするのが大好きでした。オーブンで香ばしく焼いたスポンジ・ケーキに、水田さんで買い求めた材料で作ったクリームやアンジェリカを載せたクリスマス・ケーキが懐かしく思い出されます。「有難うお母さん」と、想い続けていますよ。
 水田さんの南に「カムイン」という名の洋食屋さんがあったらしいのですが、謎の店です。祖父は、千楽のランチを出前でとった際、「千楽は、カムインだったね」と言っていました。川口和子さんの戦前本町地図にも「カムイン」が載っていますし、昭和三十一年発行の沼津商工名鑑にも、水田さん南隣に「カムイン」があった記述が残っていますが、中野勇雄さんの写真では「喫茶・千楽」がその場所に写っているのです。二店の関係は、不明のままです。
 その北の「丸一薬局」は、明治三十二年創業の老舗ですが、今はお洒落なスポットになっていますよ。カフェでは、ヘルシーな飲食物が提供され、裏には、ポンテ・スパッツィオ(イタリァ語で「橋の空間」という意味)というヨガ・スポットも開いています。歴史を感じる店々を巡った後、若い女性たちで賑わう「マルイチ」に出会い、沼津の未来への望みを感じました。その北には「駿河銀行本町支店」「井口無線」「双葉不動産」、今も開業している「庄司歯科医院」がありました。
 七 出前うどんの思い出と「沼津映画劇場」
 さあ、本町の思い出散歩も、終点が近づいてきました。最後の北東フロック角を東に曲がると、小路右手に「梅鉢」という甘味屋さんがありました。「梅鉢」の歴史は古く、大正時代にはあったらしいのです。戦前は、本町通りに開店していました。あんみつを食べに家族で訪れた想い出を共有する沼津市民も多いでしょう。平成になってから移転しました。
 角地にある「安田屋」は、大正十四年創業の老舗そば屋です。信州霧下そばを謳い文句にして、沼津駅周辺のデパートや大手町にも支店がありました。あんかけ焼きそばなどの中華-も、美味しく頂きました。冬の夜、診察が遅くなった父が「規、出前をとろう」と、安田屋のうどんを夜食に頼んだ半世紀前の記憶が蘇ります。家は寒くても、一杯のかけうどんを頂くと、心の中まで温められた家族の団樂(だんらん)でした。
 安田屋北には、「七五三食堂(後に、うな八)」という店があり、本町通り北東出口には、「沼津映画劇場」が堂々と建っていました。かつては「杉本旅館」という歴史ある旅館のおかみさんだった館主は、市場町仙石医院の患者さんで、沼映の入場券をよくくださいました。邦画や洋画も上映され、タバコとポップコーンの匂いが立ち込める館内で、銀幕に見入った時代は、もう二度と返ってきません。
 映画館があった跡の駐車場を東に進むと、御成橋と我が家が待っています。狩野川を渡りながら、僕が「狩野川」を想って意訳した、ヘップバーン主演「ティファニーで朝食を」の主題歌を口ずさみます。そろそろお別れの時間です。
 広い狩野川よ。いつか渡ってそのすべてを感じたい。
 ノスタルジアを抱かせ新たな夢を打ち砕く川よ、どこまでも一緒だよ、ずっと追って行くよ。
 互いに、はぐれ者で井の中の蛙だけれど、子供の時からの友達だからね。
 宝が眠るといわれる、虹の袂を探し続けようね、川と僕。
 今回、親切に取材に応じてくださいました本町の方々、有難うございました。
 地図のイラストは、今回も「石山コンビ」先生にお願いしました、感謝!

仙石 規(せんごく.ただし=郷土史家,はら仙石医院・市場町)
 (本町関係の写真は、いずれも明治史料館提供)
【沼朝2020年(令和2年)1月1日(水曜日)元旦号】

0 件のコメント:

コメントを投稿