2020年1月3日金曜日

狩野川放水路 台風19号で越水防ぐ



狩野川放水路 台風19号で越水防ぐ
 狩野川放水路の役割大きく
 昨年1012日に東日本を中心に多数の河川の氾濫をもたらした台風19号の襲来は、台風の通過点であったこの地域にも浸水や土砂災害などの被害を出した。
 狩野川も清水町の徳倉観測所で一時、氾濫危険水位より高い計画高水位にまで、あと18㌢に迫った危険な状態になった。 しかし、その後は水位が高まることはなく、氾濫の危険を避けることができた。
 この台風で狩野川が氾濫しなかったのは放水路のお陰であったことは否めない。放水路が完成したのも、当初の計画より排水量が増やされたのも、かつて地元の人達が積極的に活動したことが大きかった。
 狩野川流域は水害の常襲地で、昔から洪水に悩まされていた住民達にとっては、その対策は切実な願いだった。
 江戸時代には、下流部に簡単な土堤が造られるようになったが、洪水の度に決壊し、韮山代官の江川太郎左衛門の指揮によって修理した記録が残っている。
 その後、明治、大正の間、度々、洪水の根本的な解決策として、口野に排水口を設ける放水路開削を中心とした議論が行われるようになった。
 この議論は大正期に盛り上がりを見せ、治水対策を求める流域住民と、放水路開設により漁場を失う三浦地区(静浦、内浦、西浦)住民との間で対立が起きている。
 昭和2(1927)、内務省は、放水路建設は漁業への被害が大きいとして、放水路を造るのではなく、狩野川の改修工事に着手し、以来19年間にわたり工事が継続された。
 一方で、昭和13(1938)16(1941)の大洪水で流域に大きな被害が出た。また、戦時中から流域一帯の大乱伐と食糧増産のための開墾の進展などにより、大洪水が起きた際の被害は甚大なものになると懸念される状況があった。
 そうした中、改修工事の継続と放水路建設を求める狩野川治水会と、取入口建設が予定され直接犠牲を強いられる江間村及び三浦地区との対立が激化する。
 そして、昭和21(1946)、継続予算全額の執行完了を理由に改修工事が中止された。
 この間の工事進捗率は全工程の75%で、25%は未完了のまま工事を終えることになった。
 同23(1948)9月に襲ったアイオン台風による被害は、懸念されていたように甚大なもので、これが放水路開削の方向を決定的にした。
 翌年に狩野川治水会が提出した請願書は、取入口から隧道に至る経路について、これまでの予定線である江間線に代えて、伊豆長岡町墹之上(ままのうえ)に取入口を設けて、江間村の犠牲を小さくする長岡線の採用を訴えた。
 また、放水路開削による内浦湾の漁業上の影響についても、国及び県による総合的調査の実施と、それに基づく合理的補償更生を訴えるものだった。
 同26(1951)1月の江間村議会は、113で放水路の開削に賛成の立場に転じた。また、三浦地区では既に沼津市長および県知事に白紙委任をしていた。
 ここに狩野川放水路開削に対する障害は取り除かれ、放水路は同年、工事着手した。
 昭和32(1957)にはトンネル工事に着手したが、翌年(1958)9月の狩野川台風で狩野川は氾濫し、県東部地域は未曽有の大水害に見舞われた。
 狩野川台風による悲惨な状況の後、韮山町出身の衆議院議員久保田豊らは、国に援助と放水路計画の見直しを訴えた。
 この結果、放水路計画は見直され、当初計画では2本のトンネルで毎秒1000立方㍍の水を流す予定だったが、トンネルを大きくするとともに2本から3本に増やした。さらに約2㍍深くし、これらの改善策で毎秒2000立方㍍の水を流せるようにした。
 大規模な計画見直しがあったものの狩野川放水路は、昭和40(1965)7月に竣工することができた。

 この時に尽力した久保田の像が、伊豆の国市伊豆長岡墹之上の沼津河川国道事務所伊豆長岡出張所の道路脇に設置されている。
 一方、久保田ら地元住民が行政に働きかけたのも、狩野川台風の惨事を目の当たりにしたからにほかならない。そうした大きな犠牲の上に、昨年の台風19号では狩野川の氾濫を避けることができた点を銘記することが必要だ。
 台風19号では、ぎりぎり氾濫を免れることができたが、放水路による排水量にも限界があり、自然災害の規模も年々大きくなっていることから、今回の台風以上の規模の台風への備えを考える時期に来ているのかも知れない。
【沼朝令和211日(水)元旦号】



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