沼津城の変遷 浜悠人
沼津には沼津城の前身として三枚橋城(沼津古城)があった。
三枚橋城は天正五(一五七七)年、武田勝頼の命により、家臣高坂源五郎によって後北条氏(北条早雲から四代目の北条氏政の時)に対するものとして築城された。
その規模は大きく実戦的な城で、現在の上土(城の堀を揚げた土からの地名)を中心とした市街地が城域であった。武田氏滅亡後、徳川領となり、慶長六(一六〇一)年、大久保忠佐が城主となった。忠佐には跡継ぎがなく、慶長一八(一六一三)年、忠佐死後に廃城となり、城は取り壊された。
徳川家康は天下を統一してから奉行衆に命じ、東海道各宿に三十六疋ずつの伝馬(てんま=交通手段としての馬)を常備させ、宿駅を整備させた。
五代将軍徳川綱吉の元禄年間(一六八八ー一七〇四)には沼津も三町(三枚橋町、上土町、本町)一宿の宿場となり、山王前から出口(幸町)まで人家が続き、東海道でも有数の宿場町に発展した。
安永六(一七七七)年、水野出羽守忠友は十代将軍徳川家治から、百七十年余、城のなかった沼津の地を与えられ、新たに沼津城(別称看潮城)を築いた。当時は泰平時代ともなり戦略的構築は全く不必要で、沼津新城は平地に築かれた平城であった。これが沼津藩の始まりである。
忠友は老中田沼意次と親しく、幕閣に重きをなし、後に筆頭老中になった。
初代城主水野忠友には男子がなく、娘八重姫の婿になった忠成(ただあきら)が本家の跡を継ぎ、沼津藩の二代藩主となり、文政元(一八一八)年、老中に任命された。
彼は幕府財政救済のため貨幣改鋳を行い、文政十一(一八一一八)年には倹約令を出し、さらに十一代将軍家斉には多くの側室があり、その子女五十六人の養子縁組や降嫁(嫁入り先)の世話をした。文政八(一八二五)年には将軍の命を受け上洛している。
それらの功により沼津藩は加増を受け五万石となり沼津城の拡張、侍屋敷二万坪の拝領ともなった。この土地が、それまでの侍屋敷の片端(かたは)の地に添って西側に続く地域であったので添地と称されるようになった。
日光東照宮日光東照宮は徳川家康の廟所で、元和二(一六一六)年、家康は七十五歳で没すると静岡の久能山に葬られたが、翌年、天海大僧正が座主を務め日光山へ改葬された。
さらに、三代将軍家光が大造営を行い、一年五カ月を費やして寛永十一(一六三四)年、今見るような華麗な社殿を完成させた。表門から神厩舎へ。ここの長押(なげし)に有名な〃見ざる、言わざる、聞かざる"の三猿の彫刻がある。
そこから次に陽明門に向かう。この門は東照宮のシンボルで、極彩色が配され、まばゆいばかりに美しく、一日中見ていても飽きないというので、"日暮門"と呼ばれている。
正面階段の左右には大名から寄進された石燈寵が並び、一番内側の石段脇に銅製の燈寵が左有一基ずつ計二基あった。そこには、「駿河国沼津城主出羽守源朝臣水野忠成」と克明に刻まれていた。忠成は領地加増のお礼として、日光東照宮の陽明門に燈寵を寄進していたのである。私は、この発見に大変驚いた。
明治維新により沼津藩、八代城主水野忠敬(ただのり)は上総国(千葉県)菊間に移封され、代わって十五代将軍徳川慶喜が駿河に入国し沼津城は徳川の兵学校として脚光を浴び、多くの子弟を育んだ。
明治五(一八七二)年、沼津兵学校も東京に移され、廃藩置県により静岡県の手で同年十月、城は細分されて入札に付され、全て売却された。 その後、明治二十二(一八八九)年、東海道線の開通により沼津駅が開かれ、駅前から上土通りに通ずる道ができ、旧城祉は真っ二つに分断された。
その後、市街地が発展するに従い、堀は埋められ、土塁は削られ、沼津城址も完全に市街地に変わっていった。そして今や、僅かに大手町の中央公園に、その足跡を留めるのみである。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年4月25日(土)寄稿文】
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