北条早雲と北条五代 浜悠人
興国寺城戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城で、彼の旗揚げの城としても有名である。
早雲は、はじめ伊勢新九郎と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績により興国寺城を与えられ、その後、伊豆の国を治めていた堀越公方(ほりごえくぼう=伊豆の堀越にあった足利幕府)の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、戦国大名へと成長した。
そのため、興国寺城は早雲旗揚げの城であり、出世城と呼ばれる所以である。
先日、根古屋の興国寺城跡を訪ねた。4月6日が「城(しろ=4・6)の日」に当たり、この城が「続日本百名城」の145番目で、その他、県内には146番の諏訪原城(島田市)、147番の高天神城(掛川市)、148番の浜松城がある。
ちなみに「日本百名城」は、県内では40番に山中城(三島市)、41番に駿府城、42番に掛川城の三城がある。
興国寺城跡で、中央本丸の高尾山穂見神社に参詣すると、右側にスタンプラリーのボックスがあり、そこにスタンプを押す多くのマニアを見かけた。
本丸から急坂を登ると大土塁と伝天守台がある。ここからは南の駿河湾が一望のもとにあり、天守台の北側には幅約30㍍、深さ約20㍍の巨大な空堀(からぼり)が城を守っていた。
これまで伝えられていたところでは、早雲59歳で伊豆を平定した後、民政に意を用い、「四公六民」と年貢の取り立てを緩やかにした。(四公とは四割を税金、六民は六割が生産者)。
63歳で小田原の大森氏を追い払い関東への本拠を築き、84歳で三浦義同(よしあつ)を滅ぼして相模を平定。関東制覇の足がかりを築いた。
87歳、韮山で死去。箱根湯本の早雲寺に埋葬されている。
二代北条氏綱は関東覇権の基礎を作り、三代氏康は川越で上杉を破って全盛期を迎え、四代氏政、五代氏直の時、豊臣秀吉の小田原攻めに遭い寵城。氏政は切腹し、氏直は一命を助けられ高野山に寵居(謹慎)し、さすが北条五代も百年余にして滅亡の道をたどることになった。
小田原攻め 天正18(1590)年春、秀吉は四国、九州の征討の後、天下統一の最後の仕上げとして、小田原攻めに向かった。長年、心に抱いていた富士山を一見したいという憧れもあったが、まだ関東と奥州が自分の支配下に治まっていなかったからである。
早雲以来、五代続いた北条氏は当時の天下の情勢を見通せず、上野沼田(群馬県)の真田昌幸の所領を約束を違えて奪取し、秀吉に小田原攻めの大義各分を与えてしまう。
北条氏は家康を頼みとし、また以前、小田原城が武田軍や上杉軍に再三包囲されたが、持ち堪えたことから今回も何とかなると過信していたのである。
一方、秀吉は3月19日、駿府に入り家康の饗を受け、27日に沼津三枚橋に泊まり、羽柴秀次に三島山中城を落とさせ、大軍をもって小田原城を包囲し、早川に石垣城を一夜にして築き(実際は80余日掛かり完成。隠蔽していた松林を一度に切り払った)、あえて血を流さず、長期戦の構えを取った。
ために陣中で茶会を催し、側室淀殿を招き、諸大名にも女房を呼び寄こさせている。
先年、私は石垣城を訪ねた。本丸跡から早川を望む櫓(やぐら)に立つと、思わぬ方に富士が眺められた。茶会を催した千利休もきっと、この地点から見たに違いないと想像したら一度に感激が込み上げてきた。
さて、その年7月、四代北条氏政の切腹で小田原城は開け渡され、五代氏直は高野山に籠居させられた。かくして秀吉は天下を統一し、北条五代もここに滅びることになった。
最後に私は「生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)」の想いを強く抱いた。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年4月11日(土)号「寄稿文」】
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