室町幕府 浜悠人
鎌倉幕府滅亡後、足利高氏は後醍醐天皇から勲功第一とし従四位下を授けられ、鎮守府将軍と左兵衛督(かみ=長官)に任ぜられ、また三十カ所の所領も与えられた。
元弘三(一三三三)年、従三位に昇り、武蔵守を兼ねるとともに天皇の実名「尊治」から一字を譲り受け、「高氏」から「尊氏」と改名した。
建武二(一三三五)年、信濃国で北条氏残党が北条高蒔の遺児時行を擁立し反乱を起こした。時行の軍勢は鎌倉を一時占拠した。尊氏は天皇の許可を得ないまま軍勢を率い京都から鎌倉に向かい、天皇はやむなく征東将軍の号を尊氏に与えた。
尊氏は弟直義の軍勢と合流し、相模川の戦いで時行を駆逐して鎌倉を奪回。そのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め、京都の天皇からの「上洛しろ」との命令を拒み、独自の武家政権創立の動きを見せ始めた。そして新田義貞を天皇側の妊(かん=悪者)であるとして、討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に息子の尊良親王を伴わせ、尊氏討伐を命じた。
さらに奥州から北畠顕家も南下し始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言。寺に引きこもり断髪するが、昧方軍勢の直義や高師直などが各地で劣勢と知るや、彼等を救うため天皇に叛旗を翻すことを決意。「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言して出馬する。
竹の下の合戦
後醍醐天皇は新田義貞を総大将として尊氏討伐の軍を進めさせた。義貞の軍は東海道を連戦連勝し、箱根・足柄の地まで兵を進めた。
一方、これを迎え撃ち、尊氏は足柄峠へ、直義は箱根峠へ向かった。直義軍は義貞軍と戦って敗れ、尊氏軍は義貞の弟、脇屋義助の軍を破り勝利を得た。
この足柄峠の竹の下の合戦では、敗れた義助軍に公家大将の二条為冬が加わり、総大将尊良親王を間道から落ちのびさせ、自分が親王の身代わりとなり、全軍を指揮、奮戦し討ち死した。
先日、裾野駅近くの佐野原神社を訪ねた。本殿裏側には将軍塚と呼ばれる為冬を埋葬した大きな塚があり、私は墓前で冥福を祈った。この尊氏の竹の下の合戦の勝利が足利幕府創立の端緒になったと言われている。
疫病新型コロナウイルスの蔓延で今や世界中が恐怖に陥っている。我が国では奈良時代、疫病(天然痘)が大流行した。天平七(七三五)年から九(七三七)年にかけて九州から全国に広がり、奈良平城京では官人(役人)の大多数が罹患したため、朝廷が政務の停止に追い込まれる事態となった。
天平九年七月には大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国の諸地域に相次いで天然痘が大流行したと報じられている。
同年八月には流行の拡大を受けて、税免除の対象が、九州だけではなく日本全国の地域に広げられた。そして疫病は庶民だけではなく、全ての階級の日本人を襲い、死亡した多くの貴族の中には藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合(うまかい)、藤原麻呂という当時の国政を担っていた藤原氏の四兄弟も含まれていた。
天然痘のこの大流行も天平十(七三八)年に入ると、ほぼ終息した。当時の総人口の25~35㌫にあたる百万人から百五十万人が感染死したと推計されている。
以後、庶民は疫病にかからぬよう、無病息災を祈り六月三十日の茅の輪くぐりや、七月の京都祇園祭と、その風習が受け継がれてきている。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年3月28日(土)号】
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