◆沼津ヒラキ物語④
「発展期にむけての途(みち)」その2
加藤雅功
●小田原屋がもたらしたもの 大正6年(1917)に小田原から沼津の下河原(しもがわら)の入町(いりちう)に移り住んだ飯沼佐太郎氏(山さ)は、「小田原方式」の開き加工を開始した。祖父の実家の近所であるが、干物の製造・出荷さらには鮮魚の仲買を行った時期は大正12年か13年の頃であった。その特徴とするものは①包丁で腸(はらわた)を出す、②塩汁(しょしゐ)を使用、③生干し・天日乾燥であり、この「小田原方式」が次第に地元へと普及し、「下河原の農家の人々の副業となり、ひらき加工の商売の道が順次開かれていった。」(注)という。
下河原の人々は「小田原屋」が製品化して干物を売り出す話を知り、「ひらきならば家内工業として成り立つことを知り、夏は養蚕業、春と秋はひらき加工業として歩み出した。」(注)という。駿河湾(するがわん)や伊豆近海では夏にアジなどが採れず、養蚕に勤(いそ)しむ中で半農半漁の生活が維持できることを知ったほか、東京という市場への出荷が「小田原屋」により進められた点は、この地域に大きなインパクトを与えた。やがて東京市場へ向けては杉山源太郎氏の杉源商店(カネ井桁(いげた))など数軒が、ヒラキの製造を研究して出荷するようになった。
成立条件としては、新たな移住者によりもたらされた技術であるが、原料のアジなどは元々宮町の魚市場に水揚げされて供給できており、消費者の住む東京という巨大な市場にも近い点等から定着は早かった。ただし当時は通年の営業は無理であり、3月から5月と10月から12月にかけての年2回で、計6ヶ月間に限定されていた。その一方で夏・冬の6ヶ月は原料の「原魚」が水揚げされず、仕事にはならなかった。
安定的にヒラキを出荷できるようになるには、戦後の昭和26年近くを待たなければならなかった。戦時下での物価統制の時期から戦後においてもGHQによる統制が続き、昭和25年に全面撤廃となるまで、その間は築地や横浜の市場で修行を積む人々も多かった。身近においては親類の加藤角次郎(ヤマ加)の伯父が「築地市場」で仲買や小売りの経験を、木塚誠一郎(カネ上)の叔父が「横浜市場」で同様に5年近くの経験を積んでいる。
●粗かった洗浄 今では想像することすらできないが、川で洗濯ならぬ「魚洗い」をしていた事実である。狩野川下流は大半が柿田川の湧水起源ゆえに清流をなし、流量も多くてヒラキの洗いが普通に行われていた。
旧魚河岸(うおがし)のあった永代橋の南側から下河原にかけては、かつて数多くの洪水制御の「出し」があった。宮町(みやちょう)の小松屋付近の「宮町の出し」、下河原では相沢米店横の「相沢の出し」,木村家横の「カネ庄の出し」、旧花月旅館の「花月の出し」、新玉(あらたま)神社北側の「新玉の出し」などである。2つの「出し」の間は水の流れが一時的に弱まって静かになり、加工した後の濯(すす)ぎ、「魚の洗い場」としては好都合な環境でもあった。
また、地形的に見ても、宮町から下河原にかけての狩野川右岸は川の「攻撃斜面」側のために少し深く、淵を想像すれば分かるように小型の船舶が「出し」の間に接岸できるように、「河港(かこう)」に適する状況であった。大型の船は無理にしても、喫水の浅い船ならば遡上(そじょう)することも出来ていた。
堤防整備以前の昭和10年代の話として、「ひらき加工業者は、樽(たる)に入れた魚を長籠(ながかご)に移し変え、長籠の両方の紐(ひも)を持ち、ごしごし洗ったので傷む魚が多かった。」(注)という。マグロ荷揚げの籠で、腸(わた)を出して汚れた「開き」を洗浄する仕方は、大変扱いが粗かったことを知る。その当時は一部で掘り抜きの共同井戸もあったが、数軒で利用するために水産加工業が拡大する中では、絶対量は慢性的に不足していた。
戦後になると、製品として仕上げるため、改善に向けての努力が成された。親類の岩本善作氏(ハチボシ)が桶(おけ)を船大工に作らせて、蒸籠(せいろ)という道具を使用する現在の「池船(いけふね)」や「塩汁桶(しょしるおけ)」に漬ける形式を導入している。従来の傷みやすい竹製の丸寵ではなく、角型の「漬け蒸籠」を用いている点が先駆的であった。
●戦後の拡大期 戦争の影響下での制限で低迷した時期もあった、昭和25年末からは需要に合わせた出荷が可能となり、新しい港湾の魚市場には蛇松線の支線の「臨港線」が延伸して、貨車で原料魚が運ばれて来ていた。当時はマグロを入れる大きなトロ箱が使われ、やがてトラック輸送の時代にはより小型の木箱となり一般的な「半切り箱」(半トロ箱)は「ハントロ」と呼ぶように、深さも半分の浅いトロ箱が中心となった。「トロ」は二輪の手押し車のトロッコによる運搬の名残で、重ねて積める長細い堅牢な箱であった。
小田原のヒラキを塩水に漬けて天日干しをする方式の導入で、伊豆の棒受網(ぼううけあみ)や巾着網(きんちゃくあみ)で大量に獲れるとともに、従来のマアジに限らず、沼津港の漁船から水揚げされるムロ鰺(あじ)を加工するヒラキ業者が次第に増加して行った。マアジが中心であったが、サバやサンマ、イワシなど多種の原料を加工して、臨機応変にやって苦境を乗り越え、やがて名実ともに「日本一のぬまづの干物」として評価される道が開かれて行った。
戦前において、沼津のヒラキは「開き干し」を好む関東でも、主に東京・横浜方面に出荷していたが、生産鼠が増加するに従い、関東一円では商品を捌(さば)ききれ
なくなっていた。そのために当時の「沼津魚仲間組合」が北関東の両毛線方面から三陸に向けて、さらに名古屋・京都・大阪方面に至るまで、販路拡大の宣伝活動などを行い、その努力が実を結び、やがて全国各地へと販路が広がっていった。
立地条件や地域的展開を見た場合、ヒラキを「天日干し」に頼っていた時代にあっても、天日乾燥ゆえに外気の風による乾燥(風乾)は数時間でよかった。雨天や曇天などの場合は別として、風や日照時間に左右されることが少なく、夏などの太陽の強い日差しの下では、むしろ身が焼けて商品価値が下がる傾向さえあった。また台風が近付く夏から秋の南風が吹くころも、「西の風」の強い冬季にあっても「干し蒸籠」に並べたヒラキは皮目が網に付着するので落ちることさえ少なく、それほどの実害はなかった。
ただし原料の魚の水揚げが少ない時期である、梅雨から8月の盛夏の時季の沼津地方は、高温多湿で雨も多く、塩汁が腐敗しやすかった。
(注):『沼津魚仲買商組合三十年史』から引用(加藤角次郎氏の談話より)
(「資料館だより」通巻224号 2019・12・25発行)
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