2020年3月1日日曜日

源実朝  浜悠人


源実朝  浜悠人
 箱根地を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
 先年、箱根十国峠に登った時、この実朝の歌碑の前に立った。「沖の小島」は熱海の初島を指し、私もこの地に立ち、北は富士、西は沼津や駿河湾を望み、実朝ならずも、その雄大な景色に感激した。
 十国の名称は伊豆、駿河、遠江、相模、武蔵、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもふさ)、甲斐、信濃を見渡せたことによる。

 ところで、実朝が箱根路をたどったのは、二所参詣の折である。二所参詣とは走湯権現(熱海伊豆山神社)と箱根権現(芦ノ湖畔の箱根神社)の二カ所への参詣のことで、父、源頼朝が参詣を始めてから鎌倉幕府の重要な行事として定着し、続けられた。頼朝は伊豆に流されていた時、箱根権現に参籠(さんろう=神社に昼夜こもり祈ること)し、別当行実(ぎょうじつ)と親しい間柄となり、行実の弟がまた走湯権現の良暹(りょうせん)であった。
 頼朝は石橋山の戦いに敗れ、箱根の奥に逃れていた。その時、頼朝に食料を送ってくれたのも箱根権現の行実であった。旗揚げ直後の頼朝夫妻の苦境に救援の手を差し延べてくれた両権現への頼朝の崇敬の念は厚く、二所参詣の直接の原因となった。
 頼朝が最初の二所参詣を行ったのは文治四(一一八八)年一月で、平氏が滅亡し全国に守護地頭を配置して武家政権の基盤が固まってきた時期であった。頼朝は出発前に精進(しようじん=心身を浄め行いを慎むこと)を始め、甲斐、伊豆、駿河の御家人に途中の警護を命じ、源氏一門と有力御家人など兵士三百騎を従えて鎌倉を出発、走湯、箱根両権現と三島社に参詣し、出発から帰省まで六日間を要している。二所参詣に三島社を加えると三所詣でと言われていた。
 金塊(きんかい)和歌集 源実朝の歌集で七百余首が伝わり、清新で力強い万葉調の秀歌は異彩(いさい=際立って優れた特色)を放っている。
 「金」とは金偏の鎌倉を指し、「塊」とは植物では「えんじゅ」だが、中国風の呼び方で大臣を指す。鎌倉の大臣、即ち源実朝の歌集となる。
 建仁三(一二〇三)年九月、実朝は若くして将軍となり、北条時政が執権となっていた。実朝は都に憧れ、武芸より和歌に親しみ、蹴鞠(けまり)を喜んだ。特に、和歌については藤原定家等を三匠と仰ぎ、独学で歌作に励み、花鳥風月を楽しみ、しばしば歌会を開き、和歌に秀でた武士を恩寵(おんちょう=厚くもてなす)したと言われる。
 次に金塊集から実朝の歌を挙げると、
 ○大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも
 ○時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ
 ○いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたつぬる
 ○山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
 源氏滅亡 承久元(一二一九)年一月、実朝の右大臣就任拝賀の式典が鎌倉鶴岡八幡宮で執り行われた。式典も無事終わり、実朝が石段を下って行くと、その時、頭巾(ずきん)をかぶった法師公暁(くぎょう)が突然走り寄り、実朝に一大刀浴びせ、雪中に倒れた実朝にとどめをさし、その首を打ち落とし、「親のカタキを討ち取りたり」と叫んだ。
 これにより実朝は、二十歳になる甥の公暁に暗殺され、源氏は将軍三代にして滅亡することになった。時に実朝二十八歳であった。
…思うに、人の世はまことにはかなく、はかりがたいものであると痛感した。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和231日(土)号 寄稿文】


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