2020年3月29日日曜日

アーカイブス:昭和57年7月1日発行「沼津市民文化センター開館記念事業:記念誌」より


沼津市民文化センター建設と文化団体
 1つの運動が結実するのには、大変長い時間と労力かかかるものです。一人の熱心な提唱者が、声を大きくし.繰り返し呼びかけ、一人一人を説得してゆく。
 それに応えるように、何人かの賛同者が、こんどはより多くの人々に声をかけて、運動は花咲き、結実してゆくのです。
 夢にまで見た”市民文化センター"の完成を見、そして今また、その"こけら落し"の記念行事が、市民文化団体の力で華かに、にぎにぎしく開幕したこの記念すべき71日は、沼津の文化運動にとって、画期的とも言える大変革の日ともなることでしょう。 この記念すべき日、"市民文化・センター”建設までの運動を紹介するのも又、私たちの仕事と言えるのではないでしょうか。
 昭和437月と言えば実に14年も前になりますが,沼津合唱団の指揮者中村義光先生の提唱によって、「東高跡地への近代的文化ホールの建設」が運動として形を整え、文化団体の活動の目安が出来たのです。この年9月「文化ホール建設促進協議会」が生まれ、当時の塩谷市長に対して、”建設促進の陳情”なされるなど、市民文化会館建設の運動の輪は、少しづつしっかりした足どりで広かっていったのです。
 陳情後は。精力的に市民への協力を呼びかけ、署名運動に取りくみ、44918日、13000名の署名簿をそえて市議会へ「総合市民会館建設に関する請願書」を提出したのです。この時の請願者には、今回このフェスティバルに関わっている団体も多く参加しており運動の質的な面を長く支えていたことが示されております。この請願を契機として、ようやく市民の問に関心が高まり、「東高跡地」をめぐる文化と体育の2つの競願の様相を呈してきてしまいました。市議会での請願採択は、文化26対体育16という数字で両案共採択という結果はやや不本意なものでしたが、建設の決断は当局に移ったわけです。
 行政は、その後一向に建設の決断を下さす、塩谷市長から原市長、そして井手市長と三代も・変る中で、しびれを切らした市民団体は、”建設促進”を側面から訴えるため「募金活動」にも取り組み、これはその後すっと続けられることになりました。 昭和5011月、市民・文化団体の根づよい運動の成果として、井手市長から委託を受けた「市民文化センター建設調査委員会」が発足、517月調査報告書を答申したのです。
 昭和53年、実に運動が具体化してからも10年という時の流れのあと、48年から設定された「市民文化会館建設基金」に対し、議会で「文化センター建設継続」として約42億の資金手当がなされたのです。
 長い、長い道程と苦しい、しかし張りのある運動の結実は、目を目張るばかりの、機能的な文化センターとして見事に私たちの前に現れたのです。 運動の過程の中で、紆余曲折は確かにありました。文化か体育かの論争も起きました。しかし沼津の街を
愛し、沼津市民を支えとしての運動体同志、必ずや理解し合い豊かな市民文化の創造に結集出来ることと信じての活動は、これからも長く続けてゆきたいものです。それには一つ一つの団体か、謙虚に活動を展開し、時にはこのフェスティバルのように、供にステージに立うではありませんか。市民フェスティバルの成功を心から祈念します。
  市民フエスティバル委員会

 沼津市民フェスティバル発足と委員会
 市民文化センターの建設工事が順調に進歩する中で完成を機に、市民サイトのイベントで賑やかに幕を開けようではないかーとの声が、文化団体の中で話し合われるようになったのは56年春頃からです。 しかし、市民期待の文化七ンターの順調な建設の歩みに比べて、市民文化団体の動きは鈍く、祝賀のイベントを市民の手でーという構想は一向に陽の目を見ないまま時か過ぎました。
 何故か、どこからも”市民フェスティバル”を起こそう”との呼びかけかないまま、秋も深まり、いくつかの団体から、「このままでは、夏のオープンでの計画か立たない」「一刻も早く、集まって相談を」の声がきかれるようになった。こうした市民の自発性を土台とした活動は、誰でもいい、声をかけて、きっかけを作ってくれることか必要なのです。
 功名のためてなく、縁の下の支えとなる人たちか何よりも求められていたのではないでしょうか。
 誰から言い出すともなく”集まって、市民のフェステイバルをやろうよ”と言うことで、5610月、8団体が集まり、①大、小団体にこだわらず、みんなが平等に発言し、責任をもち合い②自主的な運営と民主的な話し合いですすめ③呼びかけ合ってメンバーを増やしてゆこうーの基本的な姿勢を確認し合ったのです。
 2回目の打ち合わせは、13団体が参集、いよいよ市内の文化団体への呼びかけを決めたのです。ここでは、①この会は、市民フェステバルの実現のみに会合しよう②関心のある団体にはすべて平等の立場で参加してもらおう③当面は会議制で④費用は参加団体にも拠出してもらおう④行政当局と連携を保ち効果的にしようーとの確認と、文化団体の結集を122日と決めたのです。
 122日、呼びかけに応え60団体が参加、市民フェスネィバルの実現に、胸躍らせて勢のこもった話し合いが続けられたのです。
 "市民の手で、オープンを祝おう”と、他市に見られないこの自主的な試みは、この日に実質的スタートをしたと言えるでしょう。
 その後、文化協会等から、フェスティバルを全丈化団体の力でやるようにとの提言もあって、会合を重ね市民フェスティバル委貝会の組織も、正副会長の決定を含めて形成されて行ったのです。
 第一回打ち合せ以来、3ヵ月後の121日のことです。会長に中村義光先生を迎え、副会長に花柳稔、志賀旦山、二橋正夫の各氏、運営委員15名を選出し、いよいよ具体的なフェスティバル作りに入った訳です。
 市社会教育課作成の文化団体名簿を頼りに呼びかけ市の広報でも参加を呼ひかけての作業は、なかなか困難も多く、団体の消長も予想外に大きく所在・責任者をつかむのに大変な苦労か続きました。
 初めての経験のため、思うように事か運はす、焦りも生しましたが、多くの団体から理解ある励ましを受け、ようやく163団体の参加でオープンを迎えることかできました。
 このフェスティバル作りを通して感じたことは、沼津の文化団体の多彩な活動であり、個性的な運営、運動であり、特に多くの優れた指導者の存在が何よりも嬉しい発見てあったことで、これはフェスティバル作りに参加したすべての人たちの実感ではないでしょうか。より豊かな市民文化の街にしてゆきたいものです。
 市民フェスティバル委員会事柊局 杉山富士男
(「沼津市民文化センター開館記念行事:記念誌」昭和5771日発行)


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