2019年7月12日金曜日

沼津ふるさと講座「柳下家の歩み」









駿河柳下家の系譜 菅原姓
菅原道真の八男 常陸介兼重の三代目 伊豆守通雅の七代後胤に柳下二郎重俊(相州足柄郡柳下郷に居を構え、以後柳下を氏とする)その末孫 柳下左近丞為本の子供が柳下源吾本典である。
1.柳下源吾本典
小田原城主大森式部小輔氏頼の家臣として酒匂川下流に相州柳下郷柳下城の城主であったが北条早雲によって大森氏滅亡の為、早雲の家臣となり享禄3年(1530年)死亡。
2.柳下源太夫本長
本典の孫で北条早雲に仕え柳下城主となったが慶長6年(1601年)早世する。
3.柳下弥太郎本春
北条氏康に仕え駿州富士郡川鳴島の戦いで戦死する。
4.柳下玄藩本重
北条氏が豊臣秀吉の小田原城攻めで敗れ柳下城に蟄居して終わる。寛文6年(1666年)
5.柳下庄兵衛知直
領主の座を降り正保4年(1647年)駿州駿東郡沼津村三枚橋に居を構えた。これが駿河柳下家の祖となる。寛文9年(1669年)死去。
6.柳下源八郎知則(生国駿河)
貞享2年(1685年)死去。
7.柳下庄兵衛知章
享保2年(1717年)幕府の命により沼津三枚橋から香貫村へ居を移す。今の沼津市民文化センター全域を含み、東は霊山寺から内膳堀に沿って南二瀬川まで、西は県道に沿った香貫一帯を領地とする。寛保3年(1743年)死去。
8.柳下庄兵衛知栄(知章の弟)これより幕臣柳下家
幕臣として残り一橋候に仕えた。元文3年(1738年)死去。
9.柳下治右衛門知堅(沼津藩士柳下家の祖)
沼津藩主水野候に藩医として仕えた。天明6年(1786年)死去。以後以後代々医師となり藩医として水野候に仕えた。明治維新後は静岡県東部の医学界に貢献した三之助がいる。
10.柳下十助継宥
幕臣として江戸に残る。
11.柳下十助継孝
徳川慶喜候の静岡遷居に従い沼津柳下家に入る。
12.柳下駐忠左衛門有寿(早世)
13.柳下十助継賢(沼津兵学校で就学)
14.柳下継寧(沼津兵学校で就学)
教育者となり下田豆陽中学校校長の折・死去。弟の柳下鎮三郎は柳下本家後継者無く養子として入籍する。弟の山出半次郎も山出家に入籍。
御殿場農業高校の初代校長として奉職。薬草学を極める。霊山寺前に住み、長女雪様、長男富士男様に看取られて昭和19年(1944年)死去
★沼津本家の柳下は子供に恵まれず成人に至らず世を去り他家から養子を迎えて柳下家を継いで来た。11代柳下大蔵は放蕩三昧で殆どの土地を失い、勘当廃嫡となった。その後も養子を迎えて現在、文化センター東側の墓地・妙海寺の墓地を管理供養している。
15.柳下規矩男
楊原小学校から県立沼津中学校卒業後、二松学舎大学を卒業して楊原小学校教員として奉職。大正3~4年にかけて沼津少年団を立ち上げ、日露戦争に参加負傷し、退役して陸軍少佐木下秀四郎氏と協力して、沼津市内に広く声をかけて団員を集めた。大正5年8月日清戦争を退役することになった。大正6年10月沼津中学校同窓の後藤守一(註釈)の妹後藤つると結婚。大正8年岩下清周師のお導きにより温情舎(現不二聖心女子学院)設立に際し初代主宰として主事官舎も与えられ家族共に奉職することになる。昭和3年三島大社の記念館勤務から沼津市役所社会課で昭和7年12月消防署開設の住民理解為に地区訪問に明け暮れ、昭和8年1月死病。長男壱弐古(かずひこ)戦死。次男乙比古(おとひこ)戦死。長女佳子菓子問屋大黒屋に嫁ぐ。幕臣柳下家終わる。
 註釈'後藤守一は駿東郡大平村(現沼津市大平)出身。沼津中学校卒業後、東京高等師範学校卒業。国立帝室博物館に就職。考古学を究め監査員の資格を取りヨーロッパ各地の遺跡、発掘品調査。登呂遺跡の発掘調査は責任者となり昭和天皇に対面で地図を広げてご説明させて頂く栄を賜った。

1 件のコメント:

  1. 伸ちゃん、義人です。
    昨年11月の一中イブ古希の会で話をしてから以来ですね。
    当方も新型コロナウイルスの対応などでバタバタしています。
    Facebookはやらないことにしているのですが、つい貴兄の書き込みに遭遇し、ご母堂のお話に心打たれました。
    駿河柳下家、知りませんでした。まさに「ファミリーヒストリー」ですね。
    貴兄がご母堂はじめ大黒屋さんの歴史を大事にし、家業を守られていることに敬意を表します。創業100年の沼津朝日記事も拝見し、いたく感動した次第です。
    貴兄のがんばっている姿に感心するとともに、私も学長業と教授としての教育に一層心血を注いでいく覚悟を、改めて奮い立たせています。
    お互いにもう少しだけ人生、がんばりましょう。
    また杯をかわせる日を楽しみに!

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