2019年7月2日火曜日

横浜シルク博物館 浜悠人(沼朝7月2日寄稿文)



 横浜の馬車通は明治時代、港に直結し、日本から外国への貿易、文化の通り道であった。当時は外国人がこの道を馬車で往来し異情緒が溢れていた。
 一八五九(安政六)年、横浜が開港すると次々と外国の船が来港し、居留地には多くの外国人商社が居を構え、日本人商社も設立された。商社を通じて横浜港の貿易は大きく発展したが、開港から昭和の初めまでの輸出品の多くは生糸(シルク)であった。
 蚕糸業は日本の経済を支え、近代化に大きく寄与した。同時に、シルクの街、横浜から日本各地に外国文化が波及していった。
 一八五四(安政元)年、日米和親条約が結ばれた場所に建つ横浜開港資料館の向かい側に横浜シルク博物館がある。この館は昭和三十四年、横浜開港百年記念事業として開設された。入り口には安田周三郎の「絹と乙女」像が建ち、その周囲には桑の木が植えられていた。
 一階には生糸、絹織物のコーナーがあり、四月から十月の間は本物の蚕が飼われ、蚕が桑の葉を食べて成長し、糸を吐いて繭(まゆ)を作る過程がよく分かる。
 さらに生糸が絹織物へと仕上がり、絹の着物や洋服へ作られていく、また機(はた)織り機を使って実際に絹を織ってみることもできた。二階には古代から現代に至るまでの日本の時代風俗衣装や、江戸時代前期からの能装束、草木染資料、養蚕関係錦絵などが展示されていた。
 皇室の養蚕は明治初めから百五十年の歴史を持つ。明治四年、渋沢栄一が紹介した群馬県の養蚕家の指導を受け、昭憲皇太后(明治天皇妃)が皇居に御養蚕所を設けた。明治六年、英照皇太后(孝明天皇妃)と昭憲皇太后は群馬県の富岡製糸場(世界文化遺産)を訪ねた。同四十一年、貞明皇后(大正天皇妃)は青山御所に御養蚕所を改築し養蚕を復活させた。
 大正三年、宮城(皇居)の紅葉山に木造二階建ての風入れ屋根付きの御養蚕所を新築、蚕の餌となる葉作りに宮城内千八百坪に桑畑を新設した。紅葉山での養蚕は昭和三年、香淳皇后(昭和天皇妃)が引き継いだ。
 平成に入ると、紅葉山御養蚕所は美智子妃に引き継がれた。忙しい公務の合間をぬって二十日以上、御養蚕所に入り、自身の手で蚕を扱い、飼育された蚕は約十三万頭といい、製糸された、しなやかな糸は平成六年に十力年計画で始まった御(ぎょ)(奈艮時代の絹織物「正倉院裂」)の復元修復に一役買っている。
 余談だが愛子内親王や悠仁親王の産着も美智子妃のはからいで皇居の生糸から織られたという。養蚕にかかわり詠まれた美智子妃の歌
 夏の日に音たて桑を
 食みゐし蚕()
 繭ごもり季節しつ
 かに移る
 沼津の繭市場は大正五年、名取栄一が現在の市立図書館の地に繭市場を開設して始まった。春繭の初取引が全国に先駆けて行われたので、その年の相場の基準となり、初値はいち早く全国に報道された。
 この繭市場開設により五月から六月には数百人の繭関係者が集まり、町はにぎわいを呈した。製糸工場も進出し、大正五年、合名会社林組や山十組、続いて翌年には東京製糸や東京絹毛織が高島町や下石田に建てられた。
 ために大正四年から十一年の七年間で町の人口は一万四千百四十九人から二万九百九十三人と約67㌫も増加。シルク産業により沼津の町も商業都市から工業都市へと移行した。昭和四年、ニューヨーク・ウォール街に株式大恐慌が起こり、生糸は大暴落。日本の絹製品は九割以上がアメリカ向けだったため、恐慌の影響をもろに受け、それ以後、慢性的な不況にあえぎ、やがて化学繊維工業が台頭するに及び、製糸業は再び好況に転ずることはなかった。
 (シルク博物館は、あす3日から12日まで工事のため休館)
 (歌人、下一丁田)
【沼朝令和1年72日(火)号寄稿文】

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