2019年7月14日日曜日

沼津空襲 浜悠人 【沼朝令和1年7月14日号寄稿文】




沼津空襲 浜悠人
 昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァムにアメリカ軍が進攻し、島に飛行場を建設、大型爆撃機B29で直接、日本本土空襲を企てた。
 この年の十一月五日、昼日中、突如としてB29一機が一万㍍の上空を、怪物が異様な煙を吐くがごとく、白い飛行機雲をなびかせ沼津の上空を去っていった。実は、これが日本本土の基地や軍需工場への偵察飛来であった。翌二十年一月九日、B29一機の爆撃により、大手町、上本通、死者五、重軽傷二十九、家屋全壊九。
 四月十一日の通横町、吉田町は死者十四、重軽傷三十九、家屋全壊十三。当時、旧制沼中一、二年の私は学校帰りに御成橋たもとの鰻屋や上本通の硝子屋に大きな穴を開けた爆撃跡を見、その悲惨さに驚くばかりであった。
 四月二十三日、下香貫宮脇の技研では死者九、重軽傷二十三、家屋全壊一で、この時、犠牲となった十七歳の少女、菊池ひで等七人の慰霊碑が、三中の傍らに建っている。
 五月十七日の三枚橋、平町は死者十一、重軽傷十七、家屋全壊九。この日、空襲警報で下校となった私は三園橋を渡っていた。強烈な爆撃音で橋の上に伏せたら、狩野川に水柱が立ち上っていた。
 平町の焼き芋屋は家が吹っ飛び、跡形もなかった覚えがある。
 七月十六日、この夜も、毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く尾を引き発令された。防空壕に退避していたら、B29は沼津上空を過ぎ、平塚方面に向かったとラジオは報じた。
 警報も解除となり、私は自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、「空襲、空襲」の叫び声。急いで飛び起き、窓を開けると、南の我入道、香貫方面の空は照明弾で、真昼のような明るさだった。
 家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め、土をかぶせているから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。
 香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下し、時折、ヒューという異様な音が混じり、肝が冷やされた。私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げた。
 その頃、田圃越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化しているのが見えた。既に時刻は十七日の午前一時から三時間ほどが経ち、短い夏の夜は白々と明けてきた。
 この夜の状況は次のように発表されている。
 B29百三十機が駿河湾を北上して沼津を空襲。九千七十七発、千三十九トンの焼夷弾を投下し、死者二百七十四人、焼失家屋九千三百四十一戸。
 沼津は文字通り焼け野原と化した。
 この夜、須田病院一家六人が犠牲となり、現在、聖隷病院傍らに戦災犠牲者記念碑が建っている。
 八月三日、焼け跡に立ち、東の箱根山に目をやると、エンジンを止めて私の方に向かって来るグラマン艦載機が目に入った。近くの掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込むと、一瞬遅れてダダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを玉がかすめた。
 グラマンが飛び去った後、沼津駅方向を見ると黒煙が立ち上っていた。聞いた話では、駅構内にあったガソリンタンクが機銃掃射を受けて爆発炎上したのでないかとのことだった。この時の被害は死者三、重軽傷三。
 ところで先日、アメリカ公文書館に保存されていたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラの映像(カラー)を観る機会を得た。当時、グラマン艦載機の翼には戦果を記録するためガンカメラが付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。
 前述の八月三日、私を襲ったグラマンと並行して、線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填のもう一機がいたことが画面から分かった。その機は焼け跡に立つ藤倉電線の二本の煙突を掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。
 画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には千本松原も映っていた。
 私は命拾いした八月三日の昼時に襲って来たグラマン艦載機が機上から克明に写していたことに唖然とした。戦後七十三年を経て、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観ることができ、興奮し一晩眠れなかった。
 最後に、私は戦時中の代え難い体験を幾度でも書き、平和の尊さを市民に訴え続けていきたいと思っている。(歌人、下一丁田)
【沼朝令和1714日号寄稿文】

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