沼津はビーフステーキ発祥の地?
静岡藩での交際者たち
沼津兵学校の管理を担当した静岡藩軍事掛には、権大参事(ごんのだいさんじ)服部常純以下、少参事に藤澤次謙(ふじさわつぐかね)、江原素六(えばらそろく)、阿部潜、権少参事に矢田堀鴻あたりまでが首脳部だったと思われる。矢田堀は、明毅が長崎海軍伝習所にその従者として入って以来の上司であった。海軍出の矢田堀と並んで、幕府最末期の陸軍副総裁(総裁は勝安房)だったのは藤澤であった。
藤澤次謙(一八三五~八一)は、明毅とほぼ同年代だが、その出白は、明毅はもとより本書登場人物の多くと比べて、古くからの名門出であった蘭学者たちとの交友が深く絵画の趣味などもあったが、出生は、蘭方医として幕府奥医師を代々勤めた桂川家(かつらがわけ)の次男、三千石の旗本藤澤家の養子になり志摩守を称する殿様、れっきとした旗本である。
その藤澤が、明治二年十二月の書状で、明毅らの行状に触れた事例が、樋口氏前掲書に紹介されている当地は、牛の価格が低く、諸子が社を結んで毎週一頭を屠り分配することとなって、塚本・万年などがその世話人である。「ビーフステーキの喰ヒ飽が出来申候」というのである。 牛肉の飽食というのは、江戸の武家社会でもまだあまりみかけないものだったろう。明毅を含む兵学校教授たちは、そうした食生活をものにしていたのである。西洋での生活を経験した赤松や西が、そこで指導的な役割を演じ、明毅や藤澤のように洋学に親しんだ諸氏が、この食文化に飛び込んだのであろう。こうしたハイカラ文化は、兵学校の空気にもなったと思われる。
しかもそれだけではないと思える。明毅や万年が世話人というのは、むろん屠殺処理ではなく、牛肉の分配や会計処理であったろうが、調理や会食にも及んだのではなかろうか。牛鍋(ぎゅうなべ)という日本式食肉法でなく、ビーフステーキというものの調理や食べ方が、分配肉を受ける各人にすぐ広がるとは思えない。藤澤が知ったのは、塚本や万年らのグループによる会食の場で、彼自身もそこに参加したのではなかろうか。
三千石の旗本と徒士身分の士とが同席する食事というのを、旧幕時代に想定するのは困難で、もしあったならそこには煩雑な儀礼や斟酌(しんしゃく)が必要だったに違いない。兵学校教師仲間でのハイカラな空気からは、そうした儀礼抜きの互いの交流の場が生まれていた。
(「塚本明毅(つかもとあきたか)」塚本学著 平成26年9月1日発行)
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