2018年12月15日土曜日

平成30年12月9日(日)「山田源次郎」講師 大庭晃先生



講演資料↓





山田源次郎の生誕250周年
 記念講演会に100人超が来場
 金岡地区の偉人、山田源㎜次一郎(一七六八~一八四〇)の生誕二五〇周年記念講演会が九日、西熊堂自治会と金岡地区連合自治会によって明治史料館で開かれた。元中学校教諭で市史編纂事業にも携わった大庭晃さんが講師を務め、百人を超える来場者があった。
 源次郎は江戸時代後期の西熊堂村の名主。凶作で窮乏する村人による年貢軽減要求一揆で重要な役割を果たしたとされる。伝承によると、年貢軽減には成功したものの、源次郎は首謀者として投獄され、二十四年間の獄中生活の後、釈放されて死去した。
 大庭さんによると、源次郎達の一揆を直接的に伝える当時の史料は残されていないという。そのため、源次郎が活躍した文化文政年間から天保年間にかけての時代(十九世紀前半)における西熊堂村の様子や年貢の制度をうかがえる史料を中心に取り上げ、一揆の輪郭を解説した。
 同村は、元は旗本領だったが、一七七七年の沼津藩の誕生に伴い同藩領に編入された。その際、本来の年貢にさらに加算して納める付加税が増税になったという。
 一八一六年に起きたとされる一揆については、一九一二年(明治四十五年)に源次郎の自宅跡に建立された慰霊碑にあらましが記されている。碑文によると、藩の増税制度である「三分一五升高」の撤廃が一揆の目的だった。
 大庭さんによると、これは年貢の三分の一を金銭で納めさせ、金一両につき五升分の米価を上乗せして徴税する制度だという。
 また、この碑には、源次郎は一揆を中止させ、一揆未遂の捜査が始まると皆の身代わりとなって自首した、と記されている。その一方で、大正以降に編纂された『駿東郡誌』『金岡村誌』といった郷土史文献では、源次郎は一揆決行のリーダーとして記述されている。
 この双方の見解のいずれが正しいかについては、史料が不足しており、現時点では判断できないという。
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 西熊堂自治会は、源次郎顕彰のため、今年十月八日に慰霊碑の碑前祭を開いた。同日は地域の収穫祭である山神社祭典も開かれ、自治会役員は準備に忙しかったが、かつて名主として同じ祭典の準備に奔走したであろう源次郎を偲び、あえて同じ日に開いたという。
 今回の講演会の司会を務めた同自治会副会長で前副市長の井原三千雄さんは、先祖代々同地に暮らす家の十四代目。井原家の六代目か七代目が源次郎と同世代だという。
 井原さんは講演会開催に当たり、「この一揆は、生きるのに精いっぱいだった時代に、まさに生きるために起きた。山田源次郎は、皆のために身を捧げ、義民として時の権力に反抗した」と述べ、郷土の偉人として顕彰を続けていくことの意義を話した。
 碑前祭、講演会に続く源次郎顕彰行事として、慰霊祭が源次郎墓所の永信寺(西熊堂五一二)で開かれる。開催は来年一月二十日午前十時から。誰でも参加できる。
【沼朝平成301215()号】

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