2018年11月4日日曜日

沼津兵学校の器械学




シリーズ沼津兵学校とその人材96
 沼津兵学校の器械学
 沼津兵学校の資業生が学んだ学科のうち、英語・フランス語・漢学・数学・図画・体操(操練)などは教科書・ノートなどが現存しており、その内容が明らかになっているが、唯一よくわからないのが「器械学」である。『徳川家兵学校掟書』の第四十六条に「器械学本源ノミ」とあるのがそれである。また、本業生の学科としても砲兵科では「器械学大略」、築造科では「器械学」が教えられることとなっていたほか(第四十九条・第五十条)、歩兵科でも小銃の組立てや弾丸・薬包の製造方法などが指導されるとされていた(第四十八条)
 同時期、「器械」の名称を付した組織は、幕府陸軍の砲兵に「器械製造方」、上野戦争を戦った彰義隊に「器械掛」、箱館戦争を戦った榎本武揚軍に頭・頭並・頭取からなる「器械方」があった。いずれも兵器・弾薬の製造・修理などを担当した部署・役職だったと思われる。
 沼津兵学校の器械学も、そのような分野、すなわち造兵について学ぶ科目であったと考えるのが自然であろう。実際に資業生たちは「鋳丸稽古」として称して弾丸の製造実習を受けたという。先述の歩兵科本業生の授業が前倒しで行われたものか。教授陣には火工方が置かれたほか、軍事掛の中にも器械鍛工制作教授方といった役職が存在しており、彼らが兵学校の器械学を担当したのではないかと推測される(「沼津兵学校と造兵」『沼津市明治史料館通信』第44)。明治三年五月に軍事掛附出役(翌年沼津学校附出役と改称)に任命された坂上鉄太郎は、「器械掛附」という肩書も有しており(大庭晃「旧幕臣坂上鉄太郎「日記」」『沼津市博物館紀要』30)、同出役には他に胝市十郎・国友勇次郎ら幕府鉄砲師だった者も含まれることからも、軍事掛附出役の中に器械担当がいたことがわかる。なお、機械の固まりともいうべき軍艦を操り、その修理・建造技術などを学んだ赤松則良のような海軍出身の人材も沼津兵学校にはいたが、真のエンジニアである彼らには直接的な出番はなかったであろう。
 しかし、そもそも器械学という分野や器械を担当する専門家が最初に誕生した幕府の蕃書調所・開成所では、必ずしも造兵(兵器の製造・修理)だけを任務としていたわけではなかった。蕃書調所では、万延元年(一八六〇)十月に教授職市川兼恭が器械掛に任命され、初めて器械学が専門科目として設けられたが、それはペリーから献上された電信機・模型蒸気機関車、プロシア使節から献上された電信機・印刷機・写真機等の使用法を習得するのが目的だった。文久二年(一八六二)六月には津藩士広瀬自懿が器械御用出役に任命され、慶応元年(一八六五)閏五月には新規召し出しとなり、慶応三年(一八六七)八月開成所器械御用を命じられた。慶応元年十一月には佐野東蔵が新発明の測量杖の仕立て方を命じられた。慶応二年末には教授手伝並出役佐野東蔵・化学教授手伝出役肥後七左衛門が器械方の兼務を命じられ、津田時之助が文久二年九月、近藤宗左衛門が文久三年八月に器械御用出役に任じられた(倉沢剛『幕末教育史の研究一』)。慶応二年九月、市川は「テレガラーフ」(電信機)とともに上洛し、将軍慶喜にその使用法を説明した。もちろん、市川が関口鋳砲場、広瀬が鉄砲製造所での仕事に従事するなど、開成所が軍事技術研究とも密接に結び付いていたのは事実であるが、広瀬が速力儀や電信機などに詳しかったとされるように(宮地正人「混沌の中の開成所」『学問のアルケオロジー』)、彼らが軍事に直結するテクノロジーのみを研究していたわけではないことも確かである。
 明治二年四月、沼津兵学校に文官コースを併設することをめざし西周が起草した「徳川家沼津学校追加掟書」では、利用科本業生の科目として「器械学 気体動静学ヨリ流体動静学ニ至ル」が、同じく西が三年(一八七〇)二月、出身藩である津和野藩に提案した「文武学校基本并規則書」でも、やはり利用科本業生の科目中に「器械学」が置かれていた。いずれも、軍人が学ぶべき器械学とは違う、文官(理工系の技術者)が学ぶべき器械学が別途考慮されていたのである。
 『徳川家兵学校掟書』第二十五条第九項には、兵学校頭取は学校に属す「文庫並器械馬匹」をも所轄すると規定されており、学校の備品として器械があったことがわかる。造兵関係の器械として実際にどのようなものがあったのかは不明であるが、スタンホープ活版印刷機や石版印刷機があったのは確かなようである。また、「測量器械御買上代」として一二一両二分といった支出簿の記載も残されていることから(拙稿「下張から発見された沼津兵学校関係文書」『沼津市博物館紀要』25)、新たに購入された測量器もあったらしい。廃校後、明治五年(一八七二)五月、政府の兵部省武庫司の役人が「器械受取」のため来沼し、沼津兵学校にあった器械を東京へ持ち去った(『沼津兵学校の研究』)。はたしてその時、印刷機・測量器以外に何があったのであろうか。
 とはいえ、沼津兵学校で教えられた器械学とは、兵器・弾薬の製造・修理に関することに限られ、印刷機の使用法まで教えたとは考えられない。そもそも開成所では、活字御用という印刷機担当の部署があり、器械方とは区別されていた。軍事関係以外の器械学に可能性があったとしても、それは「追加掟書」による文官養成構想とともに幻に終ったのである。
 沼津兵学校火工方だった柏原淳平(?~一八七四)は、明治政府に出仕してからは陸軍省造兵司権大令史・九等出仕をつとめ、造兵分野で仕事を続けた。津藩士から幕臣に取り立てられたものの維新後は徳川の臣籍を離れた広瀬自懿は、明治五年九月に自作の「コロノグラピー奇器」を海軍兵学寮に寄贈したいと申し出るなど(防衛省防衛研究所蔵「公文類纂」)、軍事分野で貢献しようとした。
 一方、慶応四年七月に新政府に移管された開成所の少得業生に採用され、翌年五月同校の器械御用掛に任命された「静岡藩久江養子近藤如水」なる人物がいるが(国立公文書館蔵「太政類典」)、彼が幕府開成所に勤務した近藤宗左衛門のことだとしたら、軍事部門ではない分野で器械学を活かした数少ない例になる。
 沼津兵学校の生徒の中からは、工部大学校(東京大学工学部の前身)に進学し機械科を卒業した二人、明治三十年(一八九七)発足の機械学会の初代幹事長や工学博士となった真野文二、海軍造船大監となった臼井藤一郎のような人物も輩出している。沼津兵学校を「当時の日本で唯一最強の理工科大学というべきもの」と評価する向きもあるが(三輪修三「幕末・明治期の理工学書とその系譜「機械工学書を中心に」『日本機械学会論文集(C)』第63巻第609)、彼ら本格的な機械屋が誕生した直接的背景に沼津兵学校の素朴な器械学の存在を見ることが妥当なのかについては確信がない。(樋口雄彦)

(沼津市明治史料館通信13420187月発行)



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