よみがえる「豊臣の駿府城」
天守外観を推理する
大坂城模した五重天守か
織田信長が統一のシンボルとして1579(天正7)年に築き上げた安土城天守。これこそが史上初の五重天守だった。信長の後継者となった豊臣秀吉も信長をならい、1585(天正13)年、大坂城に五重天守を築いた。豊臣政権下では、特別な大大名にだけ五重天守造営が許されていたようで、秀吉の城以外では弟秀長の大和郡山城、五大老・毛利輝元の広島城、養女豪姫の婿・宇喜多秀家の岡山城ぐらいしか見当たらない。
今回発見された「豊臣の駿府城」は天守台の規模からその特別な五重天守が想定される。さらに政権中枢の実力者以外に許可されなかった豊臣一門と同様の金箔瓦まで使用され、まさに特別な役割を持つ天守だった。
では、その姿形を考えてみたい。関ケ原合戦以前の天守であるため、「望楼型天守」と呼ばれる安土城に起源をもつ古式な形式は確実だ。その基本構造は、入母屋造の大屋根に物見と呼ばれる望楼を載せた建物で、現存する彦根城や犬山城天守がこの形式の代表だ。
駿府城の巨大天守台には、巨大な2階建ての入母屋造が想定される。その屋根に3階建ての望楼を載せた天守で、広島城天守とほぼ同じ構造であろう。高さは広島城の約26㍍より高く、徳川の駿府城の約34㍍より低いはずである。なぜなら豊臣天守を凌駕することが家康の狙いだつたからに他ならない。従って、現存する姫路城天守の約32㍍が最も近い高さになろう。
外観は、同時期に築かれ戦前まで残っていた岡山城(1597年完成)と広島城(1598年完成)天守の姿がヒントになる。両天守の壁は黒漆塗りの下見板が張られ、軒先と鯱が金色に輝いていた。最上階には格式を上げるための装飾的な華頭窓を採用。広島城天守最上階には、さらに重要な飾りの「廻縁」が設けられていたが、不等辺の天守台を持つ岡山城では設置が困難だったようで見られない。
もう一つ、重要な資料が嫡男中村一忠が築いた米子城天守だ。規模こそ四重だが、やはり下見板張りの外観で、当初は最上階に廻縁が設けられていた。破風は千鳥破風と唐破風が見られるため、駿府城にも採用されていた可能性が高い。こうした特徴を重ね合わせると、豪華さでは劣るもののまるで大坂城天守のようだ。豊臣政権は大坂城を模した天守を築き上げ、徳川に無言の圧力をかけたのである。(加藤理文・日本城郭協会理事)
【静新平成30年11月16日(金)夕刊】
0 件のコメント:
コメントを投稿