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▽栃木県東部の那須地方に位置する大田原市湯津上地区に二つの大きな前方後方墳がある。上侍塚古墳と下侍塚古墳である。上侍塚古墳は全長一一四㍍、下侍塚古墳は全長八四㍍。築造時期は、下侍塚が四世紀末で、上侍塚はそれ以前とされている。ただし、四世紀後半に収まる範囲内だという。
▽両古墳は沼津の高尾山古墳と同じ前方後方墳である。さらに言えば、湯津上地区は私の亡き祖父の故郷であった。この二点が私の強い興味を引き、先日、ついに私は両古墳を見に行くことができた。この二つの古墳は、水戸黄門こと徳川光圀によって我が国最初の考古学調査が行われたことで知られる。調査後、光圀は古墳の補修を命じ、墳丘に松を植えさせた。今も松が茂って林となっている。
▽古墳の近くには資料館があった。学芸員の館長氏に、古墳と近畿地方勢力との関係などについて質問した。館長氏は、私が静岡から古墳を見に来たことに驚いていたが、私が前方後方墳に興味があることを伝えると、すぐに高尾山古墳のことを察してくれた。そして、那須地方でも東海系の土器が多く出土していることを教えてくれた。
▽既に閉館時刻が迫っていて、そして館長氏の専門は考古学ではなく民俗学だったので、館長氏は私の質問に答える代わりに、両古墳を扱っている研究者の名前を教えてくれた。国士舘大学准教授の眞保昌弘氏という方だった。帰宅後、眞保氏の著作を探し、市立図書館を通して県立中央図書館から取り寄せて読んだ。それは『侍塚古墳と那須国造碑下野の前方後方墳と古代石碑』という題で、出版年は二〇〇八年だった。
▽同書は、古墳築造当時の那須地方の政治状況について、「まず東海地域、その後に畿内地域の有力首長と東日本の首長とのきわめて強い政治的な結びつき」があったと述べている。また、「古墳時代前期をとおして畿内政権と一定のかかわりをもちつづけた王権の存在をうかがうことができる」とも記している。
▽いわき明星大学教授や栃木県又化財保護審議会会長などを務めた前澤輝政氏(一九二五~二〇一八)の『概説東国の古墳』という一九九九年出版の書籍には、もう少しはっきりと書かれている。「西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合の激突が起こり、勝利したとみられる邪馬台国連合の盟主国たる邪馬台国が発展し、初期大和政権なる統一政権が樹立され、一方敗れたであろう狗奴国連合の主勢力であった狗奴国は主に関東方面に逃れ、毛野の地にその多くが新天地を得たとみられる」と。毛野とは、現在の群馬県と栃木県を合わせた地域である。前澤氏は、関東の新天地も最終的には邪馬台国系の勢力によって支配されたと論じ、毛野の前方後方墳は、支配された人々の代表者か、あるいは近畿からやって来た征服者の墓である、と提唱している。
▽前澤氏の仮説は、邪馬台国(やまたいこく)近畿説と狗奴国(くなこく)東海説を前提としている。これは、三世紀中期の日本列島の政治的状況を記録した中国の歴史書の一節、いわゆる魏志倭人伝の記述の解釈の一つである。倭人伝には邪馬台国と狗奴国という国家が登場し、双方は戦争をしていたと記されている。狗奴国東海説に従うと、高尾山古墳は狗奴国と関係のある勢力によって造られた古墳とされている。
▽ここで話は資料館での出来事に戻る。実は、私は館長氏に、もう一つの質問をしていた。それは館長氏の専門が民俗学だと知ったからだ。私の祖父が生まれた集落には、平家の落人伝説がある。その伝説の真偽を尋ねると、館長氏は「家系を立派に見せるための粉飾です。史料の裏付けがありません。この辺りは、そういう伝承を持つ家は多いです」と明解に答えた。
▽沼津に高尾山古墳が造られたのは三世紀前半。その百数十年後、遥か遠い那須地方に同じ形式で上侍塚古墳と下侍塚古墳が造られた。那須が狗奴国の新天地だったとすると、私が見てきた古墳は、邪馬台国との戦いに敗れ、沼津から逃れた人々の子孫と関係がありそうである。そして、私の祖父は平家の子孫ではなかったけれど、狗奴国の末裔ではあったのかもしれない。私にとって悠遠のものであった高尾山古墳が、より身近に考えられるようになった旅であった。〈田〉
【沼朝平成30年11月11日(日)号】
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