沼津空襲 そのⅡ 浜悠入
昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァムにアメリカ軍が進攻し、島に急きょ飛行場を建設。大型爆撃機B29で直接、日本本土空襲を企てた。
それまで、日本国内は戦時中とは言え、日々穏やかな生活を送っていた。だが、この年の十一月五日昼日中、突如としてB29一機が一万㍍の上空を、怪物が異様な煙を吐くがごとく、白い飛行機雲をなびかせ、沼津の上空を去って行った。私は、これから始まる不運の前兆かと恐れ、おののいていた。
実は、これが日本本土の基地や軍需工場への偵察飛来であった。それから翌二十年に入り、沼津はB29一機による爆撃を数度受けた。
一月九日の大手町、上本通り、死者五、重軽傷二十九、家屋全壊九。四月十一日の通横町、吉田町は死者十四、重軽傷三十九、家屋全壊十三。四月二十三日の下香貫技研、宮脇は死者九、重軽傷二十三、家屋全壊一で、この時、犠牲となった十七歳の少女、菊地ひでら七人の慰霊碑が三中の傍らに見られる。
五月十七日の三枚橋、平町は死者十一、重軽傷十七、家屋全壊九。この日登校していた私達、旧制沼中二年生は空襲警報で下校、ちょうど三園橋を渡っていた。強烈な爆撃音で橋の上に伏せたら、狩野川に水煙が立ち上っていた。
七月十六日、この夜も毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く尾を引き発令された。防空壕に退避していたら、B29は沼津上空を過ぎ平塚方面に向かったとラジオは報じた。
警報も解除となり、私は「やれやれ」と思い、自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、"空襲、空襲"の叫び声。急いで飛び起き、窓を開けると、南の我入道、香貫方面の空は照明弾で、真昼のような明るさであった。
家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め土をかぶせるから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。
焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下し、時折、ヒューという異様な音が混じり、肝が冷やされた。私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げ延びた。
その頃、田圃越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化していた。既に時刻は十七日の午前一時から三時間ほど経ち、短い夏の夜は白々と明けてきた。
この夜の状況は、次のように発表されている。
B29百三十機が駿河湾を北上して沼津を空襲。九千七十七発、千三十九トンの焼夷弾を投下。死者二百七十四人、焼失家屋九千三百四十一戸の被害を受け、沼津は文字通り焼け野原と化した。
八月三日、焼け跡にぽつねんと立って、ふと東の箱根山に目をやると、エンジンを止め、私の方に向かって来るグラマン艦載機が目に入った。私は近くの掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込んだ。一瞬遅れてダダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを弾がかすめた。その後、グラマンは沼津駅を中心に機銃掃射し、構内にあったガソリン車に引火炸裂、黒煙が立ち上った。
この時の被害は死者三、重軽傷三であった。
ところで先日、アメリカの公文書館に保存されていたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラの映像を観る機会を得た。当時、グラマン艦載機の翼には戦果を記録するためにガンカメラが付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。
前述の八月三日、私を襲ったグラマンと並行して、線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填のもう一機がいたことが画面から分かった。その機は、焼け跡に立つ藤倉電線の二本の煙突を掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。
画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には千本松原も映っていた。私は、命拾いした八月三日の昼時に襲って来たグラマン艦載機が機上から克明に写していたことに唖然とした。
戦後七十三年も経て、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観ることができ、興奮して一晩眠れなかった。そして、今さらながら、戦争は絶対にすまじきものであると思った。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成30年7月8日(日)号寄稿文】
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