Metushin133 from 徹 長谷川
ぬまづ近代史点描80
一九六四東京オリンピック 沼津史の聖火リレー
二〇二〇東京オリンピックの開催が二年後に迫ってきた。聖火リレーについても、種火を東日本大震災の被災三県(岩手・宮城・福島)に運んでイベントを行った後、沖縄県からリレーをスタートする方針が決まり、また都道府県別の日数が確定し、静岡県には三日間が配分されたなどの報道が出ている。さて、最近、昭和三九年東京オリンピックの開会式の時の静岡県内の聖火リレーに関する資料が見つかったので、この資料から五四年前の聖火リレーについて紹介したい。
昭和三九年(一九六四)八月二一日、聖火はアテネを出発し、途中イスタンブール、ベイルート、ダマスカス、テヘラン、ラホール、ニューデリー、カルカヅタ、ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、ホンコン、タイペイの十三都市を経て、それぞれ一泊しながら全日空のチャーター機で空輸され、九月六日、那覇(沖縄)に到着した。当時の沖縄はアメリカの占領統治下で、本上復帰運動が盛んだった。沖縄に到着した聖火は島内をリレーした後、九日早朝に沖縄を発ち、鹿児島・宮崎・札幌に到着・点火した。南からは鹿児島を出発して九州の西側から本州の日本海側を通るーコースと宮崎を出発して九州東側から四国、本州の太平洋側を通る2コース、北からは札幌から青森で分かれ日本海側を通る3コース、太平洋側を通る4コースという4つのコースで(図1参照)、各コースとも一○日に出発した。静岡県は2コースに含まれていた。ちなみにリレー参加者は計一〇万七百十三人であったという。
静岡県のリレーコースは概ね当時の国道1号線を通るルートで、一八五・一㎞・百十四区間となっていた。コースが通過している二十五市町村は原則二区間、人口一〇万人以上の都市は一区間増、通過市町村以外は単独もしくは二町村以上で一隊を編成したほか、学校関係で特殊学校、通信教育、高等学校関係で隊を編成し、前年度、前々年度に国体、インターハイで活躍した学校を選出、団体でスポーッ少年団、青年学級、勤労青少年団体とし、種目別競技団体が東・中・西で三隊が編成された。リレー隊は、正走者一人、副走者二人、随走者二〇人以内、一六~二〇才の日本人(随走者は中学生可)で編成され、服装やアマチュアであること、毎時一二㎞を標準として走ることなどが定められていた。
静岡県に聖火がリレーされたのは、一〇月三日の一五時五〇分、愛知・静岡県境でのことである。ここを一番目として92番目の中継地点「吉原・原町境」で、一〇月六日一二時三八分、現在の沼津市域に聖火がリレーされた。92から93「東海ガス充填所前」までの区間一・八㎞は土肥町・戸田村で編成された隊が走り、正・副走者、随走者とも二三名全員が松崎高校土肥分校の男子生徒で、第93中継所までを走った。
93から95までの二区間は原町で編成した隊であった。93から94「原中学校正門前」まで一・五㎞の区間は旧浮島村で編成されたようで、正走者は山田政和(沼津商高)、副走者は堀内美秋(沼津商高)、殿岡豪(日大三島高)、随走者は浮島中学校の生徒二〇名であった。94から95「図書印刷正門前」までの一・八㎞は、正走者杉山学(沼津商高)、副走者赤池実雄(日大三島高)、深沢正和(日大三島高)、随走者は原中学校の生徒二十名であった。
95から96「沼津加工紙正門前」まで一・八㎞の区間は、東伊豆町・河津町の隊が、96から97「静岡スバル沼津営業所前」までの区問一・二㎞は、松崎町・賀茂村・西伊豆町の隊が、97から98「沼津商業高校正門前」まで一・三㎞の区間は南伊豆町・下田町の隊がリレーした。
98から101「黄瀬川橋東詰」までの三区間三・九㎞が沼津市の隊の担当であった。
98から99「平町バス停」まで一・六㎞の区間は、正走者は大島正義(沼津市役所)、副走者は堀江進(自営)・鈴木雅樹(不二石油)、随走者は中島忠男(土佐谷鉄工)ら社会人八人、沼津商業高校の男女生徒八人、一中、二中の生徒四人であった。
99から100「東京麻糸紡績沼津工場前」の一・一㎞の区間は、正走者は井上泰秀(県土木事務所)、副走者は早川昭男(国産電機)・加藤晴祥(神田製作所)、随走者は東芝沼津の社会人二人のほか中学校・高校の生徒一八人(沼津四高三人、沼津女商高五人、沼津市高二人、五中四人、金岡中四人)で、男女比が半々の隊であった。
100から101「黄瀬川橋東詰」まで一・二㎞の区問は、正走者折戸慶四郎(あみや酒店)、副走者茂呂嘉幸(加藤車体)、初又信好(漁業)、随走者は海福潔(日産自動車)ら社会人五人、高校生一五人(沼津東高一人、沼津市高六人、沼工一人、沼津工業高専五人、沼津北部高二人)であった。「黄瀬川橋東詰」で聖火は清水町の隊にリレーされ、その後115中継所「静岡・神奈川県境」までリレーされた。ちなみに、静岡県内の最終正走者は、後にハンマー投げでオリンピヅクに三度出場した室伏重信(日大三島高)であった。
一〇月九日、日本列島を四つのコースでリレーされてきた聖火は当時有楽町にあった東京都庁前に集まった。翌日の十月一〇口、一九歳の坂井義則(早稲田大学)が最終ランナーを務め、国立競技場の聖火台に聖火が灯されたのであった。
(本・文中敬称略。所属・町村名・場所等は当時)【沼津史明治史料館通信第133号 平成30年4月25日発行】
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