明治初期、沼津に外国からの馬
ナポレオン3世から幕府への贈り物
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は先月、沼津ふるさと講座を市立図書館四階の講座室で開催。国立歴史民俗博物館教授で元市教委学芸員の樋口雄彦氏が「沼津城と沼津兵学校ーアラビア馬がいた厩(うまや)のことー」と題して話した。約六十人が聴講した。
「顕彰に値」と樋口教授
近代日本の馬の歴史で重要な位置
沼津兵学校の研究で知られ、市内でもたびたび兵学校にまつわる講演をしている樋口氏が今回取り上げたのは、一八六七年に海外から日本にやってきた二十六頭の馬。
この馬は、日本の在来種とは異なるアラブ種の馬で、江戸幕府と友好関係にあったフランスの皇帝ナポレオン三世から贈られた。当時、ヨーロッパでは蚕の病気が流行して養蚕業が大打撃を受けており、この復興支援のために幕府がフランスに蚕の卵を送ったことへの返礼品だった。
当初は、下総国小金牧(千葉県松戸市)で飼育されたが、幕末の動乱で新政府軍との徹底抗戦を図る旧幕府軍に接収されることを恐れた勝海舟の命令により、沼津の愛鷹牧へ移されることになった。小金牧も愛鷹牧も幕府の牧場だった。
しかし、馬がやってきた当時の沼津は幕府が崩壊して駿河に転封となった徳川家の静岡藩の管轄となっていて、財政的に苦しい静岡藩は牧場経営に冷淡だった。
愛鷹牧に移された馬は、在来の小型馬と交配させて品種改良を進める計画となっていたが、静岡藩の冷遇のため、再び江戸に戻り、新政府に献上されることになった。ところが、新政府も受け取りを拒否したため、旧幕臣で新政府に仕えていた山岡鉄舟の提案に従い、二十六頭の一部が徳川家一族に分配された。
残りの馬の消息については、その一部が沼津兵学校にいたと見られる。兵学校では乗馬の授業があり、馬は授業で使われた。兵学校の沿革を記した記録によると、複数の出自の馬十数頭がいたという。
馬術の授業は水野家沼津藩時代に沼津城に付属して設けられていた馬場を使って行われ、幕府陸軍の騎兵出身者が馬の管理を行った。
一八七二年、フランス公使は日本政府に対し、過去に品種改良のために寄贈したはずの馬が本来の目的で活用されていないと抗議を申し入れた。これを受けて政府は、陸軍省が管轄していた沼津兵学寮(兵学校の後身)にいた馬二頭を農政を担当する大蔵省農寮に移管きせている。これは沼津兵学寮が廃止される直前の出来事だったという。
フランスからの馬と沼津との縁を話した樋口氏は、この馬は近代日本の馬の歴史において重要な位置を占めていることから、そうした馬が沼津で数年間を過ごしていた事実を重要視し、顕彰に値する出来事ではないかと指摘した。
◇
講演後、参加者は樋口氏と共に、大手町などの沼津城や沼津兵学校ゆりの地を見学した。
【沼朝平成30年3月31日(土)号】
【当日配布資料】
沼津城と沼津兵学校一アラビア馬がいた厩のこと一
樋口雄彦(国立歴史民俗博物館)
2018年3月11日 沼津史談会・沼津ふるさと講座
史斜1
(前略)慶応三年に至り幕府ハ下総に御囲牧を設け、此馬を飼育し蕃殖を謀りましたか、翌明治元年ハ先に申上けし戦争にて脱走の徒か右「アラビヤ」馬を持行くやも謀り難しトヲ勝安房か心配シ、私に取りに行けと命せられました。因て私ハ下総へ参り、其馬を率連て来ましたか、何分飼ふ場所に困りました処に、駿河の沼津で飼つて蕃殖を謀り、兼て愛鷹山の野馬を改良するか良からんとて同所へ移しました。此愛鷹山の野馬は以前徳川家で放飼したものて体格も頗る小さくなつて蝦夷馬よりも尚ほ小柄の様に覚てゐます。(中略)牧馬に金を遣ふなとは不都合たとの議論をなすものもあつて、会計方の重立のものを銃を放って強迫するに至り、厩舎にも妨害を加へました。(中略)夫れから東京に引連れて行きて政府に伺つた処、政府ではソンナものは不用なりとて受取りません。会以山岡鉄太郎氏か集議院の公議人として在京して居たのて之に相談したる処、山岡も困り果て、一層の事徳川の親戚に分配するか宜しからんとて、水戸、尾張、越前、田安等の諸家へ配付し、又一頭を小松宮に献し残り不良の馬一頭を私が貰ひました(後略)
(三浦泰之「史料紹介「函館大経氏ノ談話』一河野常吉の聞き取りから一」『北海道開拓記念館調査報告』第40号、2001年)
史斜2
申渡 川上次郎右衛門 陸軍生育方肝煎被命並之通役金被下候旨綾雄殿被申候依之申渡
申渡 川上次郎右衛門 亜刺比亜野馬掛可相勤候
(白井町史編さん委員会編『白井町史史料集1』、1984年、白井町)
史斜3
明治元年10月26日「阿部邦之助川村半左衛門鈴木与兵衛を訪高畠友吉二付口阿らひや馬を見」(樋ロ雄彦「静岡藩の医療と医学教育一林洞海「慶応戊辰駿行日記」の紹介を兼ねて」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第153集、2009年)
史斜4
明治2年5月「十七日徳川家達よりアラビヤ馬(牝七才栗毛・牡当才白栗毛)各壱疋を贈ら。(番頭・用人日記、駿府様御用留)」
(辻達也編『新稿一橋徳川家記』、1983年、株式会社続群書類従完成会)
史料5
●御厩
兵学校に附属したる厩は城外字御添地にあり調馬方教授岩波力次、竹田金次郎、並木謙可の支配にて其下に御馬方ありて馬疋を馴練飼養す御馬方は孰れも前の騎兵の兵士なり(中略)此頃厩に飼養せられ資業生の稽古に供せられたるはカズノー(仏国御雇教師カズノー氏の持馬なり依て名つく)軽井沢、鼠山、愛鷹など十四五疋なりしが後に前上様乗用なりし雄龍(或は謂ふ蟠龍)といふ逸足を下されたり
●落馬の稽古
馬場は厩に接して設けられたれども元水野藩時代のもの其侭にて拡張せられず長方形にて埒の内幅□間長□間斗り十四五疋の馬を一筋に乗る時は長辺は余地なき程に短し一辺に馬見所あり教官は此所に居りて指図を下す(中略)
●雄龍(或は謂ふ蟠龍)より落馬
(中略)雄龍は舶来雑種の良馬にて御厩中第一の駿足と称され熟練の者に非れば中々御し難きなり(後略)
(石橋絢彦「沼津兵学校沿革(五)」『同方会誌』42、1916年)
↓馬上の函館大経(函館悦子氏所蔵):沼津市博物館紀要42「馬と沼津兵学校:樋口雄彦」論文より
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