2018年3月14日水曜日

興国寺城跡「北曲輪堀の構造紹介」


北曲輪堀の構造紹介
沼津市 発掘調査ほぼ終了
10日、「興国寺城跡」説明会
沼津市は10日午後1時半から3時まで、国指定史跡「興国寺城跡」(同市根古屋)の2017年度発掘調査説明会を現地で開く。城跡最北部の北曲輪(くるわ)部分で見つかつた堀の構造などを紹介する。(東部総局・中村綾子)
北曲輪は天守台があったとされる部分の北側の空間で、北の外堀と南の大空堀で区画される。発掘の結果、曲輪の中央部分には幅最大4~6㍍、深さ約3㍍以上の堀が愛鷹山の尾根を分断するように東西に延びていることが分かった。堀を埋めた土の一部に江戸時代初期の陶磁器が混入していることなどから、大空堀の拡張時に廃棄された曲輪である可能性が高いという。
興国寺城跡は戦国時代に関東一円を支配した小田原北条氏の祖、北条早雲の旗揚げの城として伝えられる。2003年度から続いてきた発掘調査は17年度でおおむね終了。市は18年度、これまでの調査結果を報告書にまとめる方針。
【静新平成30年3月8日(木)朝刊】

↓沼朝記事

戦国大名北条氏ゆかりの障子堀か?


興国寺城跡今年度調査で現地説明会
 市教委は十日、国指定史跡・興国寺城跡の発掘調査現地説明会を開き、今年度の調査により戦国大名北条氏ゆかりの障子堀(しょうじぼり)が発見された可能性があると発表した。
城跡北側の空堀跡に
山中城祉同様、畝のような個所
 同城は市内西部の浮島地区根古屋に所在。愛鷹山麓の尾根を利用した造りになっていて、根方街道を見下ろす立地になっている。
 もともとは駿河の大名今川氏の城だったが、一四八七年、今川氏の家督継承問題で活躍した北条早雲(伊勢宗瑞)に与えられ、後に関東一円に勢力を伸ばす北条氏の最初の拠点となった。
 しかし、同城は駿河東部の重要拠点だったこともあって周辺大名の争奪の対象となり、城の支配者は両氏以外にも武田氏や徳川氏、豊臣系大名の中村氏など目まぐるしく変わった。
 江戸時代初期、家康家臣の天野康景が最後の城主となり、康景が近隣幕府領とのトラブルで大名を自主廃業したことから、一六〇七年に廃城となった。この間、確認されているだけでも、十六人以上の城主や城代の交代があったという。
 一九九五年に国指定史跡となり、二〇〇三年度に市教委による本格的な発掘調査が始まった。今年度は、〇七年度の調査で存在が判明していた城跡北側の空堀跡の詳細な調査が行われた。
 今回の調査では、この堀は一回埋められ、その後再び掘り返されていることが判明。また、堀跡の底からは畝(うね)のような部位が発見された。
 これは三島市の山中城などで見られる障子堀と同様のものである可能性が指摘されている。障子堀は、敵兵が空堀の底を歩いて通るのを妨害するなどの目的で造られた。
 これは北条氏に特徴的な築城法であり、同氏にとって重要な城には障子堀が設けられていることから、興国寺城にも障子堀があると従来より考えられていた。今回の発見によって、その仮説が実証される可能性もあるという。
 また、一度埋められた堀が再び掘り返されたのには、支配者の頻繁な交代と関連があると見られている。
 市教委によると、支配者交代後、旧支配者に城の弱点などを熟知されているのを嫌った新支配者が、城の構造を変えて旧支配者の逆襲に備えたという。埋め立てや掘り起こしのあった年代の特定は、今後の研究課題。

 現地説明会には二百二十人の参加者があった。午後一時半からの開始と告知され゜ていたが、開始予定時刻前に大勢の人が詰め掛けたため、急きょ初回の説明が繰り上げ開催された。参加者の多くが堀の底をのぞき込み、携帯端末やカメラで撮影していた。
【沼朝平成30年3月14日(水)号】

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