2018年3月1日木曜日

幕末維新期に従軍の農民兵士

幕末維新期に従軍の農民兵士
駿河・伊豆地域から幕軍、官軍へ
 沼津・三島・富士の三市博物館連絡協議会による明治維新一五〇周年記念特別講座「幕末・明治の富士・沼津・三島」が二月二十四日、サンウェルぬまづで開かれた。国立歴史民俗博物館教授で元沼津市教委学芸員の樋口雄彦氏が講師を務め、百人を超える来場者があった。
 神職の義勇軍部隊も
 樋口雄彦教授が講演
 今回の講座のテーマは「幕末維新の戦乱と駿河・伊豆の民衆」。樋口氏は、現在の県東部に相当する地域の庶民が幕末の動乱に様々な形で参加していたことを伝える事例の数々を紹介した。
 当時、韮山代官所は郷土防衛のために農兵制度を導入し、農民や町人から兵士を募っていた。これとは別に幕府も兵賦(へいふ)と呼ばれる徴兵制度を実施し、幕府領地の村々から兵士を集めて幕府陸軍に配属していた。
 地元の防衛を目的とする農兵と異なり、幕府陸軍は各地に出動することを前提としていた。現在の沼津市内出身の兵士が一八六四年の天狗党の乱の鎮圧のために下野(栃木県)に出動したことや、一八六六年の長州征討に従軍していたことを示す記録が残されている。
 また、市内北部にあった幕府牧場(愛鷹牧)の関係者が幕府陸軍の騎兵部隊に編入されたこともあった。牧場の現地管理人である牧士(もくし)が朝廷儀式用の馬を運ぶため
に京都に向かったところ、鳥羽伏見の戦いが始まり、牧士三人が幕府陸軍に入隊させられたという。三人は騎兵第三大隊二番小隊の隊員となりパトロール任務を担当したが、敗戦で部隊は解散し、三人も帰郷した。
 農民や町人を兵士として集めたのは、幕府だけではなかった。一八六七年の大政奉還後、新政府に従った沼津藩は、その命令で甲府に藩兵を出動させた。これにより地元の防備が手薄になったので、沼津藩は領内の村々から人を集めて非常組と呼ばれる自警団を組織。甲府出動が終わると、非常組は常整隊と改称し、臨時の自警団から常設の農兵隊へと再編成された。
 富裕層の子弟が韮山代官所の農兵になったように、沼津藩の非常組や常整隊も富裕層の子弟が参加していたという。
 このほか、伊豆一帯に点在していた旗本領でも農兵制度の導入が行われた。鳥羽伏見の戦い前後、幕府は旗本に対し、領地に駐在して農兵隊を組織するよう命じており、これに従い、伊豆各地の旗本領で農兵隊が編成された。
 以上は幕府や藩などの行政権刀を握る側によって作られた部隊だったが、民間主導の部隊もあった。
 駿河東部地域の神職達は駿東赤心隊という義勇軍を作って新政府軍に加勢した。その一人で岡宮浅間神社の神職だった植松伊織は、駿河全体の神職部隊である駿州赤心隊にも参加して江戸にまで行っている。
 その後、植松は招魂社(後の靖国神社)や新政府の機関に勤務した。維新後、駿河は徳川家の領地となったため、明確に幕府に敵対した赤心隊のメンバーらは、報復を恐れて帰郷できなかったという。
 様々な兵士の姿を紹介した樋口氏は、幕末に兵士となった人々の中には明治以降の地域社会のリーダーになった例が散見される点を挙げ、これらの人々は為政者に利用されつつも、その中で主体性を得て各自の道を進んでいった、と指摘した。
【沼朝 平成30年3月1日(木)号】

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