2018年3月8日木曜日
平成30年3月4日(日)高尾山古墳現地保存説明会
高尾山古墳は、背後に雄大な富士山、眼下には奥駿河湾という美しい眺望に恵まれた愛鷹山麓の山裾と平地の境に築造されています。
「これがスルガの王の塚か?!なんて大きいんだ!」スルガの王に招かれた隣国の使者は、初めて見る巨大な塚にびっくりしたことでしょう。富士山と愛鷹山が背後にそびえるその姿は、スルガの王の力を強く印象付けたはずです。
古墳が築かれた当時、古墳西側の低湿地帯には田子の浦を湾口とする浮島沼が形成されており、海から沼へ進入すれば、古墳の南西2~3km地点までは舟で到達できたと考えられます。
スルガの王が生きた弥生時代後期には、舟の製作技術が発達し遠隔地(えんかくち)との交流が活発化していました。波の穏やかな浮島沼は舟が発着する港として利用され、物資の運搬や情報の伝達が盛んに行われていたかもしれません。高尾山古墳の雄大な姿は、海からやってきた人々の目にもいちばんに飛び込んできたことでしょう。
かつて高尾山古墳の後方部には高尾山穂見神社(たかおさんほみじんじや)が、前方部には熊野神社が鎮座していました。地元には古くからこの高まりが古墳ではないかと考える人もいましたが、発掘調査によりその姿が明らかとなりました。
高尾山古墳は、方形と方形をつなぎ合わせた「前方後方墳」(ぜんほうこっほっふん)と呼ばれる形をしています。この形は、スルガの王が属していた政治勢力を示しているかもしれません。前方後方墳は古墳時代の比較的古い頃に多く造られましたが、静岡県内では数が非常に少なく、高尾山古墳は東部で2例目(もう1つは富士市の浅間古墳) (せんげんこふん)、沼津市では唯一の事例となります。
初期の前方後円墳(ぜんぼうこうえんふん)は畿内地方を中心に分布しています。一方、前方後方墳は東海地方以東の地域に多く確認されています。このことから、古墳の形状の違いは異なる政治勢力の存在を示しているのではないかと考える研究者もいます。
高尾山古墳の規模
全長約62.178m(前方部:30.768m、後方部:31.410m)
墳丘高:後方部5m、前方部1m?
周溝幅8~9m(南端は2m前後)
(沼津市教育委員会「高尾山古墳ガイドブック」)
高尾山古墳を守る会が見学会
道路との両立想定される地点を回る
高尾山古墳を守る会(杉山治孝会長)は四日、東熊堂で同古墳の現地見学会を開き、約三十人が参加者した。
参加者は、市が発表している古墳保存と道路整備の両立案を基にした資料を手に、トンネルや橋梁の整備が想定される地点を巡回見学した。
参加者からは、古墳東側に建設予定の道路橋梁部分が古墳の景観に与える影響を懸念する声などが上がっていた。
【沼朝平成30年3月8日(木)号】
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