わが徳川家康論 磯田道史(「文藝春秋」令和4年11月1日発行:令和4年11月号229頁230頁)
・・・前略・・・ もともと日本列島は地質学的にいっても、二つの島から出来上がっています。その継ぎ目であり、裂け目が、本州の中央にあるフォッサマグナで、その西縁は糸魚川静岡構造線とよばれます。これが実は政治文化のうえでも、東西の境目になってきました。日本史上、このフォッサマグナのあたり、駿河、遠江、三河、尾張のエリアを境に、大きな衝突が起こり、文化的にも社会的にも東と西が分かれる傾向があった点は重要です。
それは邪馬台国の時代にさかのぼります。『魏書』や『後漢書』の東夷伝には、女王・卑弥呼の邪馬台国と、卑弥弓呼(ひみここ)と呼ばれる男王の狗奴国が「相攻撃」していたと記されています。これは文字で歴史に記録された日本列島最初の大規模戦争だと考えられますが、狗奴国の中心は巨大な初期古墳の立地から、駿河の国、いまの沼津付近とする説も有力です。
西の邪馬台国は巫女王的な女性をリーダーとする、儀礼や文字などを重んじ、腕力よりも脳内の観念に訴える「儀礼と権威」を原理とした支配を行っていました。これに対し、東の狗奴国のほうは、武を司る男性王が支配し、縦型の命令系統にしたがうような「力と服従」を原理とした国家が想定されます。東の王墓と考えられる沼津の高尾山古墳からは多量の武器が出土しています。
この境目の感覚は、その後も引き継がれ、初の東国政権を開いた源頼朝も、墨俣川、いまの長良川を境として、そこから東を自分たちの縄張りだと考えていました。例えば、平家を打倒した後、義経をはじめ、頼朝の許可なく朝廷の官位を受けてしまった御家人がいましたが、これに対し、頼朝は、墨俣川より東に入ったら領地を取り上げた上に斬首する、と申し渡しています。
三河を軸とするエリアは古来より、日本列島の「陸の潮目」にあたるホットスポットだったのです。・・・後略・・・
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