源頼家 浜悠人
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もいよいよ佳境に入った。
鎌倉幕府二代将軍源頼家は頼朝の嫡男で母は北条政子である。生まれは寿永元年(一一八二)八月十二日で幼名を万寿と言い、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が懐妊した際、頼朝は安産祈願のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(だんかずら=葛石を積んで一段と高くした路)を造り、頼朝みずから監督した。
建久六年(一一九五)二月、頼朝は政子と十三歳の頼家、十七歳の大姫を伴い上洛した。頼家は六月三日と二十四日に参内し、京都で頼朝の後継者としての披露が行われた。
建久八年、頼家は十六歳で従五位上、右近衛権少将に叙任され、生まれながらの鎌倉殿は武芸の達人としても成長した。建久十年、父頼朝が急死、十八歳で家督を相続、名実ともに二代鎌倉殿となり、三年半後には征夷大将軍となった。
頼家が家督を相続して三カ月後の四月には北条氏ら有力御家人により十三人の合議制が敷かれ、頼家が直(じか)に訴訟を聴断(訴えを聞いて裁くこと)することは停止された。これに反発した頼家は小笠原長経、比企三郎ら近習五人を指名し、彼等でなければ自分への目通りを許さず、これに手向かってはならないと命じた。
合議制の設立から半年後の十月、侍所長官の梶原景時が追放され、頼家は景時を救うことが出来なかった。
建仁三年(一二〇三)、頼家は弟、実朝の乳母にあたる阿波局の夫、阿野全成を謀反の罪で逮捕、殺害した。阿波局も逮捕しようとしたが、阿波局の姉でもある政子が引き渡しを拒否した。
頼家は七月半ば過ぎに急病にかかり、八月末に危篤状態に陥った。この間、頼家が存命中にもかかわらず、弟、実朝を征夷大将軍に擁立する動きがあった。九月、北条時政は比企能員を謀殺し、比企一族を滅ぼした。
頼家は病状が回復し、病気中の事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、九月、却(かえ)って鎌倉殿の地位を追われ、実朝が新たに鎌倉殿になった。頼家は修善寺に護送され、翌年の元久元年(一二〇四)、北条氏の手兵により殺害された。享年二十二歳。
ところで頼朝死去後の鎌倉の大きな流れは二代将軍頼家の後ろ盾である比企一族と三代将軍実朝をかついだ北条一族との権力争いと考えられている。
先日、暑い盛りに修善寺を訪ねた。修善寺には幽閉され殺された頼家の供養のため、政子が建てた指月殿と呼ばれる墓所がある。指月とは経典を意味した語とあった。
明治の俳人であり歌人の正岡子規は、この地に幽閉され悲しい最期を遂げた、頼朝の弟の源範頼と頼朝の子、源頼家を偲ぴ
此の里に悲しきものの二つあり
範頼の墓と頼家の墓とと詠んでいる。
私は沼津に近い伊豆修善寺の丘に立ち、遙か遠い鎌倉時代の将軍や武将に思いを馳せたのである。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和4年10月9日(日)寄稿文】
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