2022年4月27日水曜日

桃介橋 長野県南木曽町 国内最大級の木製つり橋(ニッポン橋ものがたり)

 


桃介橋 長野県南木曽町

国内最大級の木製つり橋







 建設時あつれき 今はシンボル まちとまち、人と人をつなぐ橋。新聞12社連合が各地でよりすぐった橋のものがたりや歴史、橋と共に暮らす人たちを紹介する。

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 長野県の木曽川は、急峻(きううしん)な木曽谷の底をえぐるように流れる。そこに架かる木製のつり橋「桃介(ももすけ)橋」は、木曽谷の最南端に位置する南木曽町(なぎそまち)の中心部にある。長さ247㍍で木製のつり橋としては国内最大級。大正時代に水力発電所建設の資材を運ぶために造られ、現在は生活路や通学路に使われている。

 橋の名前は、施工した大同電力(現関西電力)の創業者、福沢桃介(1868年~1938年〉にちなむ。福沢は「有限の石炭に対し、水は無限」と水力発電に着目。木曽川水系の長野、岐阜両県の計7カ所に水力発電所を建設して「電力王」と呼ばれた。

  その一つ「読書(よみかき)発電所」(南木曽町)の建設資材を運ぶために1922(大正11年に造られたのが桃介橋。近くの駅からトロッコを走らせ、橋を経由して発電所まで資材を運んだ。橋は、一帯で最も川幅が広い場所に架けられた。3基のコンクリート主塔、石積みの橋脚。「桃介」の名を冠すからには立派な橋にしたい一との福沢の思いが感じ取れる。

 デザインは細部まで凝っており、主塔は西洋風のたたずまい。橋のたもとにある「福沢桃介記念館」案内人の西尾典子さん(74)は「米国へ留学経験がある福沢が、ゴシック風のブルックリン橋に似せたといわれている」と教えてくれた。南木曽町教育委員会で文化財を担当してきた宮川護さん(48)は「いきなり異文化の大きな橋が架かって住民は相当驚いたでしようね」と話す。

 福沢は地域が誇る偉人かと思いきや、橋の建設当時、水利権を巡って福沢と地域にはあつれきが生じていた。記念館が展示するパネルは「(福沢は)反対する村や住民を寄付金で懐柔し、果ては脅迫まがいのことまでして手中に収めていきました」と随分と率直に説明している。木曽ゆかりの文豪島崎藤村の兄、広助(ひろすけ)は、水利権の重要性を訴えて抵抗したが、仲間の切り崩し工作にあい、失意のうちに手を引いたという。



 そんな経緯をたどりながらも橋の完成は住民に多くの恩恵をもたらした。地元に木曽川の両岸を結ぶ本格的な橋がなかったため、発電所完成後は住民たちが生活路として利用し、大いに重宝。50(昭和25)年には関西電力から旧読書村(現南木曽町)に譲渡された。

 78年には老朽化で通行禁止となり、廃橋の危機を迎えたが、住民は復元を求めて運動。93年に造り直され、再び開通した。橋の近くに住む松原正導(まさみち)さん(84)は、昔は通学で、今は散歩で橋を渡る。「仲間と合唱曲も歌って通った青春の思い出が詰まった橋。町民の誇り」と話す。橋は、近くの県立蘇南(そなん)高校の生徒たちが通学路として使い、住民はランニングやウォーキングのコ一スとして親しむ。夜間はLEDでライトアップされ、ちょっとしたデートズポットでもある。大正時代に反発と羨望(せんぼう)が向けられた橋は、今は多くの人に愛される「町のシンボル」になった。



 信濃毎日新聞

 文・河井政人

 写真・米川貴啓橋


 




メモ  福沢桃介は埼玉県吉見町の生まれで、1883(明治16)年に慶応義塾へ入学。桃介を見込んだ福沢諭吉は、次女と結婚させた。桃介は米国留学後、名古屋電灯の経営に参画。1921(大正10)年に大同電力を発足させ、本曽川水系の電力開発を進めた。挑介橋は94(平成6)年、読書発電所などとともに近代化遺産として重要文化財に指定された。

【静新令和4(2022)427(水曜日)

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