沼津藩の街道をめぐる 浜悠人
一七七七(安永六)年、水野出羽守忠友は初代沼津藩の藩主となり、二万石の大名で出発した。その上、徳川将軍から沼津城の築城を命じられた。沼津城は平和な江戸時代の城郭なので戦闘的な山城ではなく、平地に築かれた平城であった。狩野川沿いの上土にあった三枚橋城より北に進んだ地に築かれた。
下石田から街道を西に進めば「歴史マップ沼津市大岡」なる説明板が見当たる。江戸時代の、この地の状況がよく説明されているので感心した。
二ツ谷(ふたつやは近くに二軒、家があり二ツ家と呼ばれたのに由来)を過ぎて浪人川を渡ると、黒瀬橋のたもとに平作地蔵がひっそりと立っている。沼津の平作は浄瑠璃の「伊賀越道中双六」で有名で、歌舞伎にも上演されてファンに広く知られている。
日枝神社参道入り口には「一里塚」がある。幕府は街道一里ごとに塚を築き、榎を植え、旅人の標識とした。ここは江戸から二十九番目の塚にあたる。
ほかに玉砥石(たまといし)と呼ばれる大小二つの柱状石で数条の直線的な溝があり、古代、玉を磨いた痕跡と伝えられる。
平町を過ぎ狢川(むじながわ)に架かる三枚橋を渡る。当時は三枚の大きな石で橋が架けられていた。川廓(かわぐるわ)は狩野川と沼津城の城郭に挟まれた土地から由来し、中央公園(沼津城本丸跡)から川廓の街道に出た所に「川廓通り」と標示された大きな説明板がある。
左側には一雄斎国輝画の沼津城をバックに長州征伐に上洛する幕府軍が川廓通りを行進する様子が描かれている。中央には東海道分間延絵図、右側には沼津略画図と大変参考になる。
川廓を上り左へ曲がると上土(あげつち)となる。ここは戦国時代、武田勝頼により三枚橋城が築かれ、城の堀を掘り、土を揚げた地域から上土(揚げ土)と呼ばれた。江戸時代は商家が多く、東側の狩野川べりは商店名や屋号の付いた河岸が並び(狩野川の水運を利用する問屋町が発達した。
上土から右に曲がれば通横町である。人馬継立てでにぎわった。飛脚などもおり、今日の郵便や運送の業に当たると思われる。
短い通横町を左に曲がると沼津宿の中心部、本町と下本町にさしかかる。参動交代をする大名や旗本、幕府役人、宮家など泊まった本陣(間宮本陣、清水本陣、高田本陣)や脇本陣(中村脇本陣)、それに旅寵(宿屋)五十五軒が数えられ、にぎにぎしく繁盛し、た町だった。
下本町を右に曲がると浅間町があり、丸子神社と合祀の浅間神社や近くには多くの寺々が見受けられる。さらに西へ進めば出口町となる。沼津宿の出口にあたるところから名付けられた地名で、当時、宿(しゅく)の出口には見張りの番所として「見付」があった。西の見付が、ここ出口町で、東の見付は平町にあった。
江戸時代、沼津宿は東から三枚橋町、上土町、本町と三町に区分され、それぞれ北へ向かって町域を広げていた。現在それら三町名が大字(おおあざ)として残っている所もある。市道から間門へ向かえば、三枚橋城主だった大久保忠佐の墓がある妙伝寺が左手に見られる。
間門と小諏訪の境に「従是東沼津藩」なる傍示杭がある。沼津藩の西境に立てられたもので明治末期頃に折られて下半分が失われ、「従是東」なる上部の石柱だけが見られる。
今回、ステイホームのさなかではあるが、癒しを求め、沼津藩領域を東から西へと歩みを進め、紹介させていただいた。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年7月31日(金)寄稿文】
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