2020年7月25日土曜日

沼津ふるさと講座「岡部長民と小川信」資料









シリーズ沼津兵学校とその人材○67
長崎奉行を父にもつ岡部長民 二百名余の沼津兵学校資業生の中には、自分の代で頭角を現した者も少なくないが、その一方、先祖や父祖が立派な足跡を幕府内で残した、名家の出身者もいる。第四期資業生岡部長民は、長崎奉行をはじめとする顕職に就いた父を持っていた。

長崎奉行は、江戸幕府が遠く長崎で、外交・通商・司法などの仕事を行わせた旗本の重職である。歴代の中には名奉行と称される者もいた。第一一三代として安政四年(一八五七)から文久元年(一八六一)まで在職した岡部駿河守長常もそんな一人である。彼の奉行時代には、踏絵の廃止、綿羊の飼養奨励、外国人居留地の設置、人足寄場の開設、長崎製鉄所の建設といった施策が行われた。また、オランダ人医師ポンペに対し解剖を許可し、蘭方医松本順らをしてコレラ予防に尽力させたり、病院を建設するなど、西洋医学に多大な理解を示した。長常には安政六年に撮影された裃姿の写真が残る。その開明的な立場から、攘夷派に狙われたという。

岡部家は、戦国時代には駿河今川氏の家来だった。後に徳川家康に仕え、娘が秀忠の御乳人になっている。長常の家は、分家のそのまた分家であるが、武蔵・相模で一三〇〇石の禄を食んだ。
長常は養父内蔵助の養子であり、実父は日光奉行・留守居などをつとめた五〇〇〇石の旗本太田隠岐守資寧。長崎奉行就任前は、御小納戸、御小姓、御使番をつとめた。長崎離任後は、外国奉行、大目付、御作事奉行、神奈川奉行、御鎗奉行、軍艦奉行を歴任した。慶応二年(一八六六)四十二歳で没。開明派幕吏の代表岩瀬忠震の次女幸子を養女に迎え、山高信徳の妻に配した。信徳は、堀利熈(外国奉行・箱館奉行)や山高信離(横浜語学所生徒・幕府フランス留学生)の実兄である。
岡部長民は、弘化元年(一八四四)七月十日に長常の長男として生まれた。少年時代は長崎で過ごしたと思われる。父の跡を継ぎ第十代当主となる。先祖代々襲名の五郎兵衛が旧名だった。慶応三年二月に新砲兵差図役勤方に就任、戊辰時には一ランク昇進していたようで、徳川家の駿河移封に随行すべき家来の名簿(「駿河表召連候家来姓名」)には、「大砲差図役岡部五郎兵衛」とある。後の階級で言えば砲兵中尉である。
明治二年九月、大砲差図役として同役だった瀬名義利・林正功とともに沼津兵学校第四期資業生(全五十九名)に及第した。移住後には、廉と改名したらしく、静岡藩の名簿「沼津御役人附」「静岡御役人附」には「岡部廉」(あるいは「簾」)で掲載されている。
学校の政府移管後も最後まで残留し明治五年陸軍教導団に編入された六十三名の中に彼の名前はない。つまり途中で沼津兵学校を退学したことになる。しかし、八年(一八七五)の官員録には、陸軍砲兵少尉として掲載されており、やはり陸軍に入ったことがわかる。十二年時点では中尉、十四年時点では教導団教官・七等出仕。
日清戦争に出征した静岡県出身兵士の氏名・略歴を町村毎に載せた『日清交戦静岡県武鑑』(一八九六年、佐野小一郎編、松鶴堂)には、駿東郡楊原村の箇所に「同砲兵大尉岡部長民氏下香貫ニ出廿七年八月四日応召渡清各地累戦シテ廿八年七月十日凱旋スルモ論功行賞未定」とある。すでに東京在住だったにもかかわらず、同書に収録されたということは、本籍地が楊原村に残っていたということである。また、維新時の移住地が下香貫村だったと推測できる。
自身も出征したらしいが、三男を日露戦争で亡くしている。砲兵少佐で退役した。大正七年(一九一八)五月十七日没。法名は広徳院殿真月浄照大居士、妻の高子(瞭然院殿高雅妙燦大姉)は、昭和十三年(一九三八)まで長生きした。(参考文献)鈴木要吾『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』(一九三三年、一九九四年復刻、大空社)、『長崎事典歴史編』(一九八二年長崎文献社)、『爽恢-岩瀬忠震顕彰碑建立記念誌ー』(一九八六年、岩瀬肥後守忠震顕彰会)、『横浜開港の恩人岩瀬忠震』(一九八〇年、横浜歴史研究普及会)、『江戸幕臣人名事典一』(一九八九年、新人物往来社)(樋口雄彦)
(明治史料館通信Vol.19No.2通巻第74号2003,8,25)

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