力石 浜悠人
狩野川の河口、我入道側に突き出た小山があり、山上に不動尊の小洞がある。さらに隣り合わせの南側の石段を上り詰めると八幡神社が鎮座し、そこからの周囲の眺めは素晴らしいものだ。
そして両方の石段の上り口の中間点に一つの力石を見つけた。傍らの説明文には「福島正則力出石二十貫(七十五㌔)天正時代豊臣秀吉の小田原征伐にあたり三島世古本陣に寄宿した武将福島正則がこの石を持ち上げたという伝承から『福島正則の力石』と呼ばれている」と記されていた。
一五九〇(天正一八)年、豊臣秀吉は小田原を本城とした北条氏政、氏直父子を攻撃し滅亡させた。世に言う小田原の出陣である。
その折、秀吉、家康軍は三島の山中城を攻め、一日にして落城させた。一方、福島正則は織田信雄の軍に加わり韮山城を攻め、包囲した。
大力の福島正則が出陣前に我入道を通り、力石を持ち上げたのは、この時であろうと推測される。
ところで、戦国の世から今日まで、およそ四百三十年を経、この石は何を見続けてきたのだろう。福島正則の力石は語ることなく、今日までじっと坐し続けている。
先日、大岡上石田の諏訪神社を散策した。ここにも力石がある。戦後、地中に埋められていたのを昭和四十四年、公民館建設により掘り出され、再び昔の力石として脚光を浴びた。
傍らの「上石田力石の謂(いわれ)」から引用すれば、「明治六(一八七三)年、富国強兵を目指す政府は徴兵令を公布、二十歳以上の男子はすべて兵役につかせることにした。この力石は大(約二十七貫、百一・七㌔)、中(約二十五貫、九十四・四㌔)、小(約二十二貫、八十五・五㌔の三個で、明治二十九(一八九四)年頃より使用されていた。徴兵前の若者が集まり石を持ち上げたり担いだり力くらべし体力向上を図ったと伝えられる~」
ところで、石を持ち上げて競うのは、現代スポーツのウエイトリフティングに当たるのではなかろうかと思った。だが、力石は持つための手掛かりもなく、持ち上げるには大変苦労したであろう。日本人は石を持ち上げることにより修業・鍛錬の道を求めたのであろうか。(歌人、下一丁田)
【沼朝平成31年3月30日(土)寄稿文】
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