2019年3月5日火曜日

いだてん 浜悠人(沼朝平成31年3月5日寄稿文)




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 先日、NHK大河ドラマ「いだてん」を見る機会を得た。そこには金栗四三を演ずる中村勘九郎が韋駄天となり熱演していた。
 日本初のオリンピック予選会のマラソン競技で優勝した金栗は明治二十四年、熊本県玉名郡春富村に生まれた。明治四十三年に旧制玉名中を卒業後、東京高師(現筑波大)に合格、上京して寄宿舎から通学した。
 その年の十月、金栗は東京高師の恒例行事の「秋の長距離竸走会」に意気込み参加。レース直前、立ち小便をしているうちにスタートの号砲が鳴って出遅れるも、持ち前の「すっすっはっはっ」の呼吸法で、ほかの学生をごぼう抜きし、途中わらじから裸足になり六里(二十四㌔)の道を走り、見事三着でゴール。表彰式では嘉納治五郎校長から銅メダルを受け取り、大感激した。
 明治四十四年、大日本体育協会(JOC)を設立して初代会長となった嘉納は、第5回オリンピック・ストツクホルム大会の参加選手選抜のため予選会開催を大々的に発表した。
 金栗は新聞でマラソン競技二十五マイル(四十㌔)を知り、挑戦しようと思った。熊本弁で「やれるか、いや、やるんだ。やってみらんと分からんばい」と口ずさんでいた。
 明治四十四年、オリンピック予選会の当日、東京高師の徒歩部(マラソン部)の面々は羽田で道に迷っていた。だが、最終競技のマラソンには無事、間に合うことができた。
 金栗は播磨屋の足袋を履きスタートした。競技場を出て多摩川沿いに土手を走り川崎へ。そこから東海道を南へ下り、東神奈川で折り返す、およそ二十五マイルの道程を突き進んだ。
 途中、沿道の声援を受けて懸命に走り続け、競技場に戻った時は一位に躍り出ていた。どしゃぶりをついて雨の中、ついに金栗はゴールテープを切った。
 二時間三十二分四十五秒、世界記録だ。嘉納校長はストップウォッチを手に興奮していた。力尽きた金栗がよろけると抱きかかえてくれた。これを機に金栗は未知なるマラソン竸技の探求にのめり込んで行った。
 明治四十五年、マラソンの金栗と短距離の三島弥彦は嘉納校長のもと校長室でオリンピックのエントリーシートに署名し、正式に日本代表選手となった。金銭の工面もうまく収まり、金栗と三島はストックホルムに向けて出発した。
 シベリヤ経田で八千㌔、十七日間の長い旅程であった。第5回オリンピック・ストックホルム大会に初めて、日本人の金栗と三島が「NIPPON」のプラカードを掲げて入場行進・・、このシーンは、これから放映されるので楽しみにしてください。
 大正八年、金栗四三は東京朝日新聞社の後援のもと、下関~東京間、千二百㌔を二十日間で走破した。当時の模様を伝える新聞から抜粋すれば「沼津に一泊せる金栗は出迎えの小田原中学渋谷教諭と新たに加わった旧制沼中(現沼東)徒歩部選手、高野、布川と共に午前七時沼津銀行前を出発し、七時三十五分三島に到着、十五分休憩し箱根に向った」と報じていた。
 たまたま沼中徒歩部で加わった布川は後年、出版界で名を馳せた布川角左衛門であった。
 彼は新聞社から、沼津~国府津の一区間の応援の伴走を頼まれ、同級生の高野と参加し、八月八日の朝、沼津を出発し三島へ。ついで旧東海道を走って箱根を越え、小田原を経て国府津に至り無事その役目を果した。
 金栗は汽車で沼津に戻ろうとする布川を、「君は、なかなかいい走りだ。東京まで一緒に行こう」と誘い、布川は一人残って国府津館で金栗と同じ部屋に泊まった。
 翌日、東海道を走って横浜の開港記念館に宿泊。翌十日、いよいよ東京へ出発。沿道の一段と賑やかな声援を受けながら終点の日比谷公園に到着した。
 新聞の見出しには「鉄脚三百里を走破
せる金栗・秋葉両選手の凱歌、一路歓呼の中を帝都に入りて新記録を誇るマラソン覇者の雄姿、到着点日比谷は人を以て埋る」とあった。
 当然、布川もその盛んな歓迎会の渦中にいたが、それが一段落した時、新聞社の人から「よくやってくださった。ご苦労さまでした」という挨拶と共に二円五十銭を手渡され、ランニングシャツとパンツだけの姿で沼津へ帰ることになった。
 後年、沼中を卒業した布川は岩波書店に入社、編集部長を経て退社。出版学会を創立して初代会長となる。当時、金栗に会った布川は「人生もマラソンと同じですね」と言われた一言が深く心に残っていると述べていた。 (歌人、下一丁田)
【沼朝平成3135()寄稿文】

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