2019年3月14日木曜日

2つ目の首くび塚づか(西間門にしまかど)    加藤雅功(資料館だより220号平成30年12月25日発行)


◆ぬまづ点描「2つの首塚」②
2つ目の(くび)(づか)(西間門(にしまかど))    加藤雅功

『静岡県名勝誌』(明治36年刊)に掲載の「髑髏(どくろ)(づか)の原典は『沼津雑誌』(明治16年刊)であり、「髑髏塚」として紹介され、「間門の北端に在り、金山(しん)()の前の塚上に古くは、両手で抱えるほど太い一本の古松が有った。去る年の秋に強風が吹き、塚を壊し松が倒れた。土の中からうず高く積もった、百余の頭蓋骨(ずがいこつ)が露出した。地元民は未だ何の遺跡であるか知らないという。しかも(おそ)れつつしみ、そしてこれを元のように復原した。自然にこの塚の呼称は「髑髏塚」と名付いた。」(原文は漢文)と記されている。明らかに発見の経緯からも千本松原の東側の首塚とは異なるものであり、明治14(1881)914日の暴風雨かで倒木したことが推定される。
江戸前期の『東海道分間(ぶんけん)延絵図(のぶえず)』では、西間門村には「金山」と記した神社と(しゃ)(そう)が描かれており、また大正期の『駿東郡片浜村全図』でも旧東海道の北、字北側の中央部に神社として描かれている。東間門に接した沼津本町の古社の丸子(まるこ)神社と関係して、(かな)山彦(やまひこの)(みこと)を祭神とした金山神社は西間門の旧村社であった。
明治前期の金山神祠は、現在八幡神社に合祀(ごうし)されている金山神社のことで、大正3年頃に編纂(へんさん)された『片浜村誌稿』では「西間門にあり、松樹一本残すのみ。武田勝頼(たけだかつより)が丸子神社を攻め、守兵を捕らえてこの所において打ち首とした。(こう)(けつ)穿(うが)って葬ったという。先年髑髏(頭蓋骨)20有余掘り出したという。」との内容が記されている。明治の末期で、既に神社が合祀されてしまって確認できないが、明治前期に塚を復
原しており、弔った後の髑髏は追善供養の対象となった。ただし、金剛寺には埋葬されていない。


神社の跡地には古い松がたった一本残っただけであるが、首を埋める墓の穴を掘って葬った時期は、未だ街道整備がされていない頃で、千本松原の広がりがこの付近にまであったのであろう。後北条の時代に武田勝頼の信仰・祈願が厚く、かつて小田原攻めの際の戦勝祈念を丸子神社で行ったという。しかし、勝頼は戦に破れて敗走し、丸子神社の社殿ほかを焼き払い、守っていた敵の兵を殺戮(さつりく)し、その際に、捕虜を金山神社の地で斬首(ざんしゅ)の刑に処したという。金山神社が八幡神社に合祀されて移った後、空閑地(くうかんち)の西側は新たに公園となり、今では西間門公会堂が建って地域コミュニティの中心となっている。東側は金剛寺の所有する土地で、空間的にも塚や松が有ったスペースの可能性がある。松や塚も残っていないが、通り寄りの東側に庚申堂(こうしんどう)東海道分間延絵図にあり、西側の松が塚であろうか。既に該当する付近は住宅地となり、確認する(すべ)もない。
東間門には「六代松」の旧跡が松原の内にある。平六代を弔う首塚(供養墓)ではあるが、地元では「首塚」とは呼ばない。かつて「六代御前」の石塔(供養塔)と「六代松」の大樹があり、やがて松が枯れてしまったので、その跡に天保年間に石碑が建立されている。史実は別として守り伝えてきた六代(妙覚)伝承の地である。ただし、「六代松碑」付近には首塚の伝承もなく、また、塚の位置も集落の南側である。

余滴(よてき)ながら、祭神の金山彦命に絡めて、武田の「金山(かなやま)(しゅう)」は戦国期から(あら)(かね)の採掘に従事し、その鉱石採掘技術を生かして城攻めや用水工事にカを注いだ。武田氏と丸子神社の関係や接点が、そこに見えてくる。
また、武田氏に限らず、千本浜の戦いでは北条氏も同様に蛮行を振るい、結果的に首塚の土盛りとして埋葬された。首塚には今回の多数合葬(群集)塚のほか、姓名の判明する個人塚などもある。さらに群集塚の事例でも、分類的には千本浜(千本郷林)の首塚と同様に「地元民の協力による祭祀(さいし)や築塚」に該当する。
なお、蛇足ながら、むしろ奇遇(きぐう)と言うベきか、筆者の祖父の菩提寺である三島の林光寺は、武田勝頼の弟の家臣が残党として落ち延びて開いた寺であり、その七人衆の一人を先祖に持つのが私である。

(資料館だより220号平成301225日発行)

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