2018年6月17日日曜日

河童 浜悠人 【(沼朝平成30年6月17日(日)号】


河童 浜悠人
 六月、梅雨に入ると、川や水と関わる季節になる。そこには勢い、日本の妖怪、伝説上の河童が登場する。
 「かっぱ」は「かわ()」と「わらは()」の「わっぱ」(童の別称)が連なり「かわわっぱ」が変化したもので、「河童(かっぱ)」または「河太郎」とも言われる。
 恰好は子どものようで、全身は緑または赤色、頭に皿があり、皿は円くて平らで毛はなく、いつも水で濡れて皿が乾いたり割れたりすると力を失くし、死ぬと言う。口は短い嘴(くちばし)で、背中に亀のような甲羅、手足には水掻きがあり、肛門が三つあるとも言われる。体臭は生臭く、姿は猿やカワウソのようだと表現されている。
 川や沼に住み、泳ぎが得意で、悪さをしては、水辺を通りかかったり川で泳いだりしている人を水に引き込み溺れさせたり、尻子玉(しりこだま)を抜いたりして殺してしまう。
 尻子玉とは人間の肛門内にある架空の臓器で、尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われ、溺れた人の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来する。
 河童の好物はキュウリで、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。諺(ことわざ)では「猿も木から落ちる」を「河童の川流れ」と言ったり、なんとも思わないことを「屁の河童」と言って使われる。
 川廊町に水神宮がある。沼津城の曲輪の守護神で、狩野川洪水の守り神であった。昔、狩野川の水を制御するためか、川に向かって石積みの突出物が造られ、「出し」と呼ばれていた。そこは船で運ばれてきた積み荷の揚げ降ろしに利用されていた。
 出しの根っ子あたりに小さな祠(ほこら)の水神宮があり、隣の志多町と共に祭っていた。盆の七月十五日を中心に祭りを営み、水難に遭わないよう「水神宮」という木札を出し、昭和四十年代まで出しの上に芦で祠を作り、ロウソクに火を灯し拝んでいた。そこには雌雄の河童の作り物を置き、白瓜の胴に昆布の衣を着せ、ナスの頭やヤツデの手、トウモロコシの髪などを付け多くの人の目を引いた。
 このように水神宮のお祭りとして「かっぱ祭り」が行われてきたが、いつしかなくなっていたのが、平成二十三年、地元有志によって復活。二年に一度、七月になると町内の子ども達が河童に扮した祭興が行われる。
 その昔、川廊に面した狩野川は沼津藩の水練場として使われ、昭和の初期まで若者が泳いでいた。当時、川の真ん中辺りに差し掛かると河童が足を引っぱり溺れさせると言われて怖がったものだ。
 私なりに推測すれば、こうだ。狩野川は天城湯ケ島を発し、途中、柿田川、黄瀬川と合流し、沼津の町を貫流する際には上土側から見て、黄瀬川、柿田川、狩野川と三本の筋をなして流れているようだ。
 川の水は決して、すぐには混じり合うことはない。多分、川の中ほどには富士山からの冷たい湧き水による柿田川が層をなして流れ、泳いでいる若者は川の真ん中で、この冷水にあい足が痙攣(けいれん)、心臓麻痺になったのではなかろうかと思う。
 ともあれ街の真ん中を大河、狩野川が流れているのは素晴らしいことである。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成30617()号寄稿文】



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