2016年2月24日水曜日

あさが来た 浜悠人

あさが来た 浜悠人

 寒い冬、今朝もテレビからはリズミカルな"朝の空を見上げて今日と言う一日が笑顔で暮らせるようにそっとお願いした時に雨が降って涙も溢れるけど 思い通りにならない日は明日がんばろう"のメロディーが流れてくる。NHKの連続テレビ小説「あさが来た」のテーマソング「365日の紙飛行機」の出だしだと知った。
 ストーリーのヒロイン、白岡あさのモデルは広岡浅子で、京都の出水三井家に生まれ十七歳の時に大阪の豪商、加島屋に嫁ぎ、明治維新を迎え、加島屋が危機に瀕するや、二十歳の浅子は女子(おなご)ながら、その経営の建て直しに凄腕を振るった。
 九州の炭鉱事業ではピストルを懐にヤマの男達と渡り合い、また、保険事業では大同生命保険の設立にかかわり、一方、日本女子大学の創設にも力を尽くしている。
 テレビ放映のこれからの進展が楽しみだが、彼女の履歴から二、三ピックアップし紹介する。
 一九〇一(明治三十四)年、五十三歳の浅子は実家三井家から東京目白の土地五千五百坪の提供申し出により、女子大開設の話は一気に具体化し、同年四月二十日、校長成瀬仁蔵、教職員五十三人、生徒五百十人をもって日本初の女子大、日本女子大学校は開講の運びとなった。
 〇四(明治三十七)年、浅子の夫、広岡信五郎が亡くなり、娘、千代(本名、広岡亀子)の婿、広岡恵三に家督を譲り、浅子は、それまで活躍していた実業界の第一線から退いた。
 二(同四十四)年、浅子は成瀬仁蔵の教会仲
間である大阪教会の宮川経輝牧師と出会い、六十三歳でキリスト教の洗礼を受けた。
 一四(大正三)年、浅子は御殿場二の岡で日本女子大学の学生を中心とした夏期勉強会を主催している。参加者の中には、市川房江(婦人運動家、政治家)、井上秀(日本女子大初の女性校長)、小橋三四子(読売新聞勤務、女性初ジャーナリスト)、村岡花子(児童文学者、『赤毛のアン』翻訳者)など、彼女らの若き日の姿があった。
 一五(同四)年、東山荘設立に当たり、当時景気も悪く、募金は思うように集まらなかったが、浅子の奔走により、三井男爵、岩崎男爵ら財閥から、また、浅子自身も多額の寄付を寄せたので御殿場二の岡に東山荘の開荘が成った。
 一九(同八)年、浅子死去。享年七十一歳。浅子の人生訓としていた「九転十起生」は彼女のペンネームでもあるが、「人が七転び八起きというなら自分は九回転んでも十回起き上がる人間になろう」という不撓不屈の精神をモットーとしたものである。
 また、次のような言葉も残している。
 「私は遺言はしない。常日頃、言う事が皆遺言である」
 ところで、御殿場市東山、YMCA東山荘本館展示場で広岡浅子展(入場無料)が三月六日まで開かれている。見学をお勧めする。
 (歌人、下一丁田)
【沼朝平成28年2月24日(水)投稿文】

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