2016年2月24日水曜日

歴民講座「徳川家康の沼津支配」資料画像

2016年1月30日徳川家康の沼津支配









徳川家康の沼津支配
 三枚橋城代松井忠次を通じて〈上〉
 市歴史民俗資料館による「歴民講座」が先月、市立図書館視聴覚ホールで
開かれ、歴史学者の芝裕之氏が「徳川家康の沼津支配三枚橋城代松井忠次を通じて」と題し、戦国時代最末期に三枚橋城に駐在した武将松井忠次(一五二一~一五八三)と戦国沼津の様子について話した。約二百人の来場者があり、会場は満員となった。芝氏よる講演を二回にわたって掲載する。
 まず戦国沼津を概観
 市歴史民俗資料館歴民講座
 東洋大学非常勤講師で千葉県文書館嘱託でもある芝氏は、徳川家康の家臣団などについて研究している。徳川家臣が、どのように領地を支配したかという研究を行い、その中で松井忠次について調べていたという。
 戦国沼津 講演を始めるにあたり、芝氏は戦国時代後期の沼津の情勢について解説した。
 永禄十一年(一五六八)以降の武田信玄による駿河侵攻により、沼津を含む駿河国一帯は今川領から武田領となっていた。
 今川時代、駿河東部の河東二郡(駿東郡と富士郡で構成される地域)は、葛山(かつらやま)氏という国衆(*)が治めていた。今川氏に従っていた葛山氏は武田氏にも従う姿勢を見せていたが、信玄は最終的に葛山氏から河東二郡を取り上げた。
 信玄は代理人となる家臣を派遣して河東二郡の管理を行わせることにしていて、興国寺城の城代が行政を担当した。過去の歴民講座で取り上げられた曽根昌世(そね・まさただ)も歴代城代の一人。
 当時、伊豆国は関東の有力戦国大名である北条氏の勢力範囲に含まれていた。「駿豆の境」とも呼ばれた沼津は、古来より関東地方への玄関口として交通や流通の重要地点となっていたが、武田氏と北条氏との対立により軍事的にも重要な場所となっていた。河東二郡を治める役所となる城が沼津にあったのは、こうした理由によるものだという。
 城主・城代・城将 城にいる武士達のトップを何と呼ぶか。歴史学では三つの専門用語で呼び分けている。
 城とその周辺の領土を所有する者は「城主」と呼ばれる。
 主君に命じられて城に赴任し、城周辺の主君が所有する領土の行政管理を任された者は「城代」。
 城に赴任し、城の防衛や維持管理は担当するが、行政には関与しない者は「城将」となる。
 このため、河東二郡の行政担当者として沼津に派遣された曽根昌世や松井忠次は、歴史用語では「城代」に分類される。
 松井忠次と松平康親 
忠次は、通説では「松平康親」と呼ばれ、『沼津市史』にも松平康親として登場する。
 江戸時代になってから編纂された系譜などによると、忠次は永禄七年(一五六四)の東条城(愛知県西尾市)の戦いで活躍した褒美として、家康の実家の姓である「松平」姓を名乗ることを認められた。
 そして天正三年(一五七五)には、諏訪原城
(島田市)の戦いで活躍した褒美として家康から「康」の宇を与えられて「康親」と名乗ったとされている。
 しかし、当時の古文書史料によると、忠次は諏訪原城の戦いの後に「松平」姓を名乗っていて、「康親」へと改名した証拠は見つかっていない。忠次が署名した文害や忠次宛ての沓状などが現在も残っていて、その中には天正四年以後の「松井」姓による署名の入ったものが含まれているが、「康親」名義のものは見つかっていないという
 ただ、忠次の息子は天正十「年(一五八三)に元服した際に家康から「康」を与えられて「康次」と名乗っていた。芝氏は、忠次が「康親」と名乗ったという伝承について、息子の出来事と混同して生まれたのではないか、と推測している。
 松井氏と松平氏
 松井忠次の実家である松井氏は、家康の先祖達に仕える武士の家柄だった。
 徳川家康は何度も改名していて、元々は松平姓だったが、松平氏には多くの一族がいて、様々な分家があった。
 そうした分家の一つに東条松平氏があり、忠の姉妹が東条松平氏に嫁いだことから、両者は親戚の間柄でもあった。
 家康が駿河の今川氏に従っていた時代の天文二十年(一五五一')、東条松平氏が今川民を裏切って尾張(愛知県西部)の織田氏と手を結ぶという事件があり、忠次は裏切りを今川義元に通報することで事件の解決に貢献した。その活躍を認めた義元は、忠次を松平本家から東条松平氏に出向させた。
 東条松平氏の家臣となった忠次は、同氏の度重なる混乱収拾に尽力し、幼少の当主(後の東条松平家忠)の名代(後見人)としての地位を認められるようになる。
 永禄三年(一五六〇)、今川義元が桶狭間の戦いで戦死し、今川氏の勢力が弱まると、家康は独立を果たした。東条松平氏と忠次も家康を支持し、忠次の名代としての地位はこれまで通りに認められた。
 (*)ミニ大名のような存在で、自分の領地や城を持っていた。多くは有享大名の支配下に軍事などの面で協力した。(以下、次号)
【沼朝平成28年2月23日(火)号】

 三枚橋城代松井忠次を通じて〈下〉
 諏訪原城と忠次 桶狭間の戦いで今川義元が急死したことにより、それまで今川氏に従っていた徳川家康は、念願の独立を果たした。
 しかし、当時の三河国には依然として今川氏を支持する勢力もあった。東条城を本拠地とする吉良(きら)氏も今川派で、忠次は吉良氏との戦いに従事した。この吉良氏は「忠臣蔵」に登場する吉良上野介の先祖に当たる。
 最終的に吉良氏は降伏し、松井忠次は家康によって東条城の城代に任命された。忠次は城近くに領地をもらいつつ、自分の領地以外の土地の代官にも任命され、家康に代わって管理を行った。
 駿河国と遠江国の二国を支配していた今川氏は急速に衰退した。遠江国は家康に奪われ、駿河国は武田信玄のものとなった。これ以後、徳川氏と武田氏は国境を接する仲となり、領土を巡って戦いが続くことになる。
 現在の島田市にあった諏訪原城は、遠江進出の拠点として武田氏によって築かれた城だったが、天正三年(一五七五)八月に徳川軍が占領した。この戦いの中で、大きな活躍をしたのが忠次だった。
 諏訪原城の戦いは、武田軍が織田徳川連合軍に大敗した長篠の合戦の直後に起こった。それまで武田氏相手に不利な戦いを強いられていた徳川氏にとって、同城の占領は武田氏に対する反撃の第一歩であり、家康の人生にとっても重要な戦いだった。
 この戦いでの活躍の褒美として忠次が「松平」姓を与えられたのは、家康が勝利をとても喜んだからだという。忠次の一族は、他の松平氏と区別するため「松井松平氏」とも呼ばれる。
 この戦いの後、諏訪原城は牧野城と改名され(*)、今川義元の子の氏真(うじざね)が入城した。家康は信玄によって駿府から追われた氏真を保護していて、氏真のために武田氏を攻めるという大義名分を得ていた。
 この時、忠次は家康によって牧野城の城将に任命され、氏真を補佐して税金徴収や武田から徳川に寝返った者の管理などを担当した。
 三枚橋城へ 織田軍の侵攻によって天正十年(一五八二)三月に武田氏が滅亡すると、織田信長は家康が駿河国を領有することを認めた。
 そして、家康は忠次を河東二郡(富士郡、駿東郡)の「郡代」に任命し、三枚橋城に駐在させた。この郡代就任により、現代の歴史学者は忠次の立場を「三枚橋城代」と呼ぶ。
 郡代とは行政担当者を指す言葉で、忠次は二郡における徳川家領地の管理と税金徴収、交通や流通の管理、戦略物資でもある竹木の伐採取り締まりなどの業務に従事していたという。
 さらに、同年中に信長が本能寺の変で急死し、旧武田領を巡って争いが起こると、忠次は駿河に侵攻する小田原の北条氏の軍勢を現在の清水町徳倉や三島市で迎え撃っている。
 その翌年の天正十一年(一五八三)六月、忠次は死去し、息子の康次(後に康重と改名)が跡を継いだ。
 その後の松井松平氏 忠次は東条松平氏当主の補佐役という立場にあった。
 東条松平氏は当主の家忠が天正九年(一五八一)に死去し、家康の四男(後の松平忠吉)が跡を継いだ。それまで忠次は東条松平氏当主と行動を共にしていたが、忠吉は幼少であったため、三枚橋城ではなく家康と共に駿府城で暮らしていたと見られる。
 天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の天下統一に伴って徳川氏が東海地方から関東地方へ移転させられると、忠吉は武蔵国北部の忍(おし・埼玉県行田市)に移った。忠次の子の康重は、その隣の騎西(きさい・同県加須市)に移った。
 その後、関ヶ原の合戦を経て家康が天下人になると、合戦で活躍した忠吉は尾張国(愛知県西部)を丸ごと支配する大大名へと出世した。しかし、慶長十二年(一六〇七)に跡継ぎのないまま死去し、東条松平氏は断絶。尾張国は忠吉の弟に与えられ、徳川御三家の一つである尾張藩となり幕末まで続く。
 康重は、常陸国笠間(茨城県笠間市)、丹波国篠山(兵庫県篠山市)、和泉国岸和田(大阪府岸和田市)と相次いで領地が移った。その後、子孫は石見国浜田(島根県浜田市)に移された。これらの土地は徳川家に敵対的と見られた外様大名の領地に隣接する地であり、その見張り役を期待されてのことであった。幕末には、江戸を守るために武蔵国河越(埼玉県川越市)に移されている。
 国境警備の専門家 講師の芝裕之氏は、松井忠次とその一族は国境防衛のプロと見なされていたと指摘する。
 諏訪原城(牧野城)で武田領との国境警備を担当した忠次達は、徳川領が東に拡大すると、そのまま東方国境の担当者として沼津三枚橋城に配置された。
 三枚橋城での忠次は、家康の代理人として駿河東部の行政を担当した。この立場について芝氏は、今川時代や武田時代の制度に由来するものだろうと見ている。
 今川氏が駿河東部を支配していた時代は、現在の裾野市を本拠とする国衆の葛山氏が今川氏に従いながら駿河東部を治めていた。
 武田氏が駿河策部を占領すると、最終的に葛山氏は追い出され、代わりに武田家臣が興国寺城に城代として派遣され、信玄の代理として行政を担当した。
 忠次が家康の代理とて駿河東部の行政を担当したのは、こうした歴史的経緯によるものだという。
 講演の最後に芝氏は、徳川家康による沼津支配の本質について、東方警備の専門家である松井松平氏の存在と、河東二郡(駿河東部)の独特の支配体制が組み合わさったものである、とまとめた。
 そして、江戸時代を通して国境防衛のプロと見なされていた松井松平氏の出発点となった場所こそ、沼津であるとも話した。
 (*)「牧野(まきの)城」という名称は、古代中国の故事から採用されたという。周王朝が殷王朝を滅ぼした一大決戦に「牧野(ぼくや)の戦い」というものがあり、兵力に劣る周軍が七十万の殷軍を打ち破ったとされる。
 織田信長も、周王朝の故事を元にしている。周王朝発祥の地に「岐山(きざん)」という山があり、縁起の良い地名として知られていた。信長は美濃国の稲葉山城を占領すると、「岐阜城」と改名し自分の居城とした。
【沼朝平成28年2月24日(水)号】

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