「鎌倉だより」 三木卓 7月
文化人の拠点、沼津兵学校
梅雨があけた。
熱海の土石流のおそろしい被害のことを思うと、心が重い。テレビで見た瞬間のすさまじさを決して忘れることは出来ないだろう。
土地の造成業者たちは、この大惨事を心に刻みつけて、今後の仕事をはげんでもらいたい。ぼくら土地・建物の素人は、相手を信頼して、安全と幸福を買っているのだから。
「沼津史談」七二号(沼津郷土史研究談話会)がとどいた。この郷土史研究会は、六十年も続いていて、巻末には去年の物故会員たちを悼む文章もある。最年長者として去る十二月十二日になくなられた矢田保久さんは満百五歳である。いろいろな時代を経て来た、沼津知識人たちのねばり強い仕事の場である。
沼津といえば、まず思い出すのは、沼津兵学校と、御用邸である。 とくに沼津兵学校は、そもそもは駿府藩士のための洋学・兵学の教育機関として江戸時代からあったものだが、維新以降にも大いに力を発揮、日本の近代化推進のポイントとして大きな役割を果たした。
ここには、沼津兵学校をあつかった講演が二本載っていて、田邉康雄さん「ある幕臣の挑戦」は、沼津兵学校一等教授だった田邉太一(やすかず)の仕事を語っている。また嘉治憲夫さん「田□卯吉・上田敏」は、田口卯吉の四代目にあたる嘉治さんが、田口家とその周辺の文化人のネットワークを描き出している。ここで後者の論文を紹介すると、沼津兵学校がひとつの拠点となっていて、たとえばここで若かった田口卯吉は、英語教師の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)の下に下宿してフランス式兵学を学ぶ。また木村熊二も田口をたすけた。田口卯吉は、かれらが認める才能をもう明らかにしていたのだろう。
田口卯吉は、経済学や文明史家として万能の力を発揮する大知識人となるが、そもそもその曽祖父は、儒学者・陽明学者の佐藤一斎だった。
また、かれの面倒を見た乙骨太郎乙は儒者乙骨耐軒の子で、その甥は「海潮音」の上田敏である。太郎乙の息子の三郎は作詞家になり、グルックのオペラ「オルフエオ」の訳詞をした。ぼくらがうたってきた唱歌も、かれの詞が多い。
また木村熊二は明治女学校をつくったことで知られる。同校は野上弥生子や羽仁もと子、新宿中村屋創業の相馬黒光などを輩出した。
沼津兵学校つながりの知識人・文化人が沼津と東京の西片町というもう一つの拠点を得て、近代化を促進していった。田口家で写した若き日の上田敏や近藤朔風(「口ーレライ」の訳詞者)や乙骨三郎らの集合写真を見ると、感動が湧いてくる。
神山明久さん「渋沢栄一と沼津その足跡を語る」は、渋沢栄一が沼津で牧場ビジネスとかかわっていたこと、その事業会社「耕牧舎沼津店」が、沼津御用邸に牛乳を調達するために設けられた支店であったのではないか、と語っている。御用邸の御用を受けていたらしいが、皇族方が飲まれる「御用達」かどうかは判然としない。
しかし、神山さんの熱意ある努力で、明治はじめ頃からの日本における牛乳の普及事情や、明治政府が牛乳を飲むことを推奨していて、明治天皇が牛乳を初めて飲んだのは、明治四年十一月だったとか、当時の産業としての牛乳の発展の様子などがわかっておもしろかった。
ぼくが社研所属の高校生だった昭和二十六年、函南村の農村実態調査に参加したが、この村が牛乳生産に熱心でしぼりたての牛乳を飲ませてもらったことをおぼえている。市販のものとはちがう、脂肪のギラギラ浮いた、迫力があるもので、ぼくはたじたじとなった。そういう体験が出来たのも故あることだった、と知った。
(作家、鎌倉市在住)
【静岡新聞令和3年7月26日(月)「文化・芸術」朝刊】
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