「沼津駅北地区」小話 中山康之
沼津駅北地区のイシバシプラザ・イトーヨーカドー沼津店が8月に閉店となる。長く市民に愛されてきたショッピングモール。寂しく、また、とても残念に思う。同時に沼津駅南口周辺の複数の大型商業施設の撤退や小売店の閉店を含めて、沼津のまちの行く末が案じられる。
ところで、イトーヨーカドー沼津店の北西側の敷地の一角に神社があるのをご存知だろうか。第六天という名が付けられた神社である。昭和3年、昭和天皇の御即位を祝して、当時この地にあった紡績工場の林組沼津支店が再建したものである。
神社の由来について再建碑の碑文には「神社の証跡がなく、また口碑に徹するに往古よりこの地の鎮守にして常に住民の尊崇の中心たり」とある。
再建碑のある高島本町は、江戸時代は七反田村と称せられていた所である。そして神社は、代々この村の庄屋を務めていた、その屋敷の中にあった。再建碑に証跡がないとあるが、前身は、その庄屋の家に「屋敷神」として祀られていたものである。
この庄屋の家は明治後期まで、沼津駅北口周辺から愛鷹山の麓まで土地を所有する地主だった。私の父方の明治20年生まれの祖父は、この庄屋の家の出身である。祖父の話では、沼津駅が開業した頃、我が家の土地を通らなければ沼津駅には行けなかったという。
江戸時代の古地図による沼津駅北地区周辺は、七反田村の集落を除き、水田が広がっていた。明治維新後、日本の近代化政策に伴って工業化が進み、北地区周辺は徐々に都市化されていった。特に明治22年の沼津駅開業は、その発展を後押しした。製糸会社の工場が出来、繭の取引市場も出来た。しかし、祖父の家は時代の大きなうねりの中で事業に失敗。家、土地の全てを失い没落した。
その土地の一部が製糸会社の工場である。大正の初期、長野の岡谷から林組が進出。そして林組は昭和5年から6年にかけての昭和恐慌で撤退する。その跡を買収したのが横浜の生糸問屋石橋商会による石橋沼津製糸である。さらに戦後を経て、繊維産業に勢いがなくなると、次に出来たのが今のイシバシプラザ・イトーヨーカドー沼津店である。
栄枯盛衰は常というが、時代の移り変わりをこれらのことでつくづく感じる。その沼津のまちは、果たしてこれからどうなるのだろうか。
明治期、沼津駅の開業がまちの発展に結び付いたように、令和の沼津駅鉄道高架化事業がまちの発展にどう結び付けられていくのか。人口減少やコロナ禍の中、その英知が強く間われることになる。
鉄道は人や物を単に運ぶだけのものではない。鉄路の拠点となる駅は、まちの顔であり、まちのあらゆる産業や生活を支えていく。言うならば、まちの発展を左有するもの。そのことを肝に銘じ、官も民も協力して沼津駅周辺の整備・発展に当たってほしい。
(元沼津市総合計画審議会委員)
【沼朝令和3年7月22日(木)号】
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