2021年1月26日火曜日

興国寺城 浜悠人 画像入り寄稿文

興国寺城 浜悠人

 昨春、城めぐりの一環として興国寺城跡を訪ねた。46日が「城の日」に当たり、記念の証(あかし)として「御城印(ごじょういん)」集めがブームとか、そんな若者を多く見かけた。

 興国寺城は「続日本百名城」の145番目で、県内には146番目の諏訪原城(島田市)147番目の高天神城(掛川市)148番目の浜松城がある。ちなみに「日本百名城」は、県内では40番目の山中城(三島市)41番目に駿府城、42番目に掛川城の三城が当たる。

 御城印集めの若者と一緒に本丸から急坂を上ると大土塁と伝天守台がある。ここから南に駿河湾が一望のもとにあり、天守台の北側には幅約30㍍、深さ約20㍍の巨大な空堀(からぼり)が城を守っていた。

 興国寺城主の変遷 興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢新九郎長氏)が長享2(1488)頃、初めて城主となった城で、彼の旗揚げの城としても有名。早雲は、はじめ駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていたが、義忠の急死後、今川家の相続争いを収めた功績により興国寺城を与えられ、その後、伊豆の国を治めていた堀越公方(くぼう、伊豆の堀越にあった足利幕府)の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、戦国大名へと成長した。そのため興国寺城は早雲旗揚げの城であり、出世城と呼ばれている。

 興国寺城は駿河、甲斐、伊豆の境目に位置していたため、その後、今川、武田、北条の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わった。

 天文18(1549)、今川義元は小規模な構造の城であった興国寺城を普請し城地を拡大。永禄11(1568)、武田信玄が駿河に侵攻、北条氏政も駿河に進出して興国寺城を占領。翌年、氏政は垪和氏続(はが・うじっぐ)を城主に任命した。

 元亀2(1571)、北条氏と武田氏が和睦すると武田方の城となり、穴山梅雪が城主となった。

 天正10(1582)、織田、徳川連合軍が武田勝頼を攻め滅ぼし、徳川方の城となり、天正18(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め滅ぼし、徳川家康は関東に移封となり、秀吉の家臣、中村一氏の重臣、河毛重次が城主となった。

 慶長6(1601)、関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利、徳川氏重臣の天野康景が一万石の城主となった。康景は三河三奉行の一人で、公平な人格を持ち、「どちへんなしの三郎兵衛」と称された。

 慶長12(1607)、家来の足軽が、城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きた。これが天領(幕府直轄地)の農民であったことから康景と代官井出志摩守正次の争いになり、家康の側近、本多上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めたが、康景は足軽をかばって城を棄て行方をくらましてしまった。

 このため康景は改易(所領没収)となり、興国寺城は廃城となった。その後、康景は相模国沼田村(現在の神奈川県南足柄市沼田)で没し、沼田の西念寺に墓がある。

 以上、戦国時代の興国寺城主の変遷をたどってみると、その儚さを痛感するのである。 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和3126日(火)号寄稿文】


 

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